※このお話は氷尋前提で、千尋さんと千迅さんの中身が入れ替わったというパロ設定の氷迅になります。躰は千尋さん、心は千迅さんです。なお、入れ替わって初めて千迅さんは千尋さんと氷川さんに関係があることを知ります。なんでも大丈夫な方にお楽しみいただけるとうれしいです。なお、氷尋の関係は春の夢・夏の雨で書いています。
◇
約束はしていない。いつも気の向いたときにふらりと訪ねた。練習の合間や無性にひとりになりたいとき、休日にひとりで走っているときに気づけば足が向いていることもあった。大体ひとりになりたいと思いながら、なぜあのひとに逢いに行くのだろう。そんな矛盾を抱えながら戸を叩いても、千尋は緩く笑って氷川を出迎えた。
「……よく来たね。」
濃紺の浴衣を着た千尋が顏を出す。陽が傾いた夕刻、衿元の寛いだ様子に出掛ける予定はなさそうだと当たりをつける。
「突然すみません。」
「いや。約束をしていたかな、」
「いえ。いつも通り、何となく気が向いて。お邪魔だったら帰ります。」
「そんなことはないよ。上がっていったらいい。」
僅かな千尋の途惑いに、もしかしたら来客の予定でもあるのかもしれないと遠慮をするが、千尋はいつもと変わらず氷川を招き入れた。居間へ向かう廊下で千尋が訊ねる。
「夕飯は、」
「いえ、まだ、」
「なんだ。飯を喰いに来たのか。」
「……すみません。」
「いやそうぢゃない。今日は大したものがないんだ。運動部の腹を満足させてやれるか解らないぜ。」
「俺の方こそ手ぶらですみません。いつも千尋さんの好意に甘えてしまって、」
「気にするな。幸い白飯は多めに炊いたところだ。それでどうにか誤魔化してくれ。」
千尋は居間のソファに坐って待つよう暗に促すが、氷川はいつも通り千尋の隣に立って配膳を手伝う。
「千尋さんは今日も呑まれますか。」
「いや……。今日はやめておくよ。」
「珍しいですね。晩酌しないの、」
「たまにはな。」
氷川は食器棚の引き出しを開けて箸を二膳取り出す。そのうちの一膳は氷川がこの家に居着き始めた頃に千尋が用意した氷川用の黒の漆塗りの箸だ。千尋が涼しげな硝子の小鉢に盛っているのは大根おろし、オクラ、じゃこ、枝豆の和え物だった。
「氷川くんは醤油とポン酢はどっちがいい、」
「ぢゃあポン酢で、」
他にも叩いた胡瓜と長芋に帆立が入った酒の肴のような惣菜も用意している。夏の夜にさっぱりと食べられそうな献立だった。
「ほら。運んでくれ。」
硝子鉢を二つ渡されると、氷川はいつも食卓にしているローテーブルに運ぶ。白飯と茄子の入った味噌汁が揃うと夕飯が整う。
「やっぱり千尋さん、呑むつもりだったんぢゃないですか。」
主菜のない夕飯に氷川が問う。
「気が変わったんだ。来るのが解っていれば肉でも焼いたんだぜ。足りないだろうが我慢してくれ。」
「いえ。いただきます。」
いつも氷川の腹具合を気にしてくれるのは教員の性なのか、年上の配慮なのか。少なくとも氷川にとっては、千尋から弟のように面倒をみられることは、乾いた部分に水が染み入るような心地のよさがあった。心なしいつもより口数の少ない千尋が気にはなったが、それもまたしっとりと肌に沿う流水のようで氷川は心の揺れが穏やかになるのを感じた。
夕飯の片付けを済ますと、千尋は風呂を立てに席を立つ。氷川の着替えもこの家にある。氷川は肌が粟立つのを冷静に感じていた。
先に風呂を貰った氷川の後、千尋も浴室へ消えた。ふたりで入ることもある。そうしたときは大抵千尋が誘った。
大の男が二人で入れる浴槽のあるこの家を「元は妾宅だ。」と笑う千尋の話をどこまで真に受けていいのか解らなかったが、膝上に乗せた千尋の欲を湯の中で煽るのは、肚の底がぐらつくほどの興奮を氷川にもたらした。声がよく響くのもいい。触れるごとに柔く甘く、啼く。
氷川は千尋が風呂から上がるのをまんじりと待った。曖昧に薄くひらめく欲望が、練り上がってひとつの形に収斂し始める。あの肉を抉るまでは、収まらない、熱。
「布団でも敷くか、」
濡れた髪を無造作にタオルで拭く千尋が居間に戻ってくる。柔らかい髪を逆立てて水分を飛ばしているので、見え隠れする額と風呂上がりの緩んだ雰囲気に氷川の枷は容易く外れるのだった。
「千尋さん、」
「ん、」
氷川が千尋の腕を引くと、千尋のタオルは宙を舞い、氷川よりも十センチは上背の低い千尋が氷川の胸に転がり落ちる。小さいと云っても女の子よりは大きい。鍛えていなくても躰は筋肉質だ。それでも氷川が欲しいのはこの躰だった。腰から掬い上げるように抱き上げて唇を奪う。いつもならすぐに首に回る腕が今日は大人しく氷川にされるがままだった。氷川が主導権を握っているときは、千尋に握らされているとき。そういう自覚のある氷川は、今日のどこか受け身で惑っているような千尋に、普段とは異なる興奮を憶えた。
◇
こいつ氷川くんにまで手を出していたのか。千迅は抱き竦められたままの状態で衝撃を受けていた。躰は氷川によって熱を高められて手がつけられない。頭の隅に辛うじて留まる理性が、この思いもかけない状況にただただ驚愕していた。千迅が混乱している間にも、氷川の舌は千尋の唇を割って侵入する。肉の厚さに思わず千迅の芯も反応する。千尋の躰は云うまでもない。逃がすつもりなど微塵も感じさせない氷川の腕は、千尋の躰を拘束する檻だ。僅かの躊躇もない氷川の動作に、千尋と氷川の関係が一度や二度ではないことを千迅は確信する。
千尋の躰に千迅の意識が宿っている。逆もまた然りだった。この奇妙な状況を当事者以外は理解することができないだろう。
始まりは溜まった有休を消化するため、二泊三日で千迅が東京から池畔の家を訪ねたときのことだった。大学は夏期休暇中で、講師の千尋の休みも融通が効くと、久々に酒でも呑むかと顏を合わせた。その際、数週間前に所用で京都を訪れていたというふたりの実父が置いていった吟醸酒を千尋が取り出した。
「相変わらずどこで手に入れたのかあやしいもんだが、近々千迅が来ると云ったら置いていったんだ。本当は自分で呑むつもりだったみたいだけれど。」
「まあいい酒だろうな。肴を用意するか。」
口の奢ったところは千迅以上の実父は、いつもどことも知れぬ店から極上の一本を手に入れてくる。どこで購うのか訊ねても決して口を割らない。のらりくらりとしながら、旨い酒を息子たちに分け与える。
この日もどこの酒蔵とも知れない、どうかするぐらい旨い酒にふたりの盃は進んだ。一升瓶が空になる頃には常以上に酔っているという自覚が千迅にはあった。
「ああ……。もうだめだ……。」
千迅以上に酔いの回っている様子の千尋は居間に倒れ込む。布団にも辿り着けず雑魚寝をすることなど学生時代以来だった。翌日痛むだろう躰のこと思うと布団に転がりたいが、布団を敷くどころか立ち上がることさえ億劫だった。食器の始末もしないまま、千迅も床の上で横になった。
障子を開け放したままだったため、縁側からは朝日が射し込む。痛む頭に千迅は二日酔いを自覚する。翌日に支障を来すほど呑んだことに嫌悪と後悔を憶えながら起き上がると、傍らには自分が寝ていたので驚いた。
「はっ、」
思わず声も出る。片腕を枕にして、やや眉間に皺を寄せて横たわっている男の顏は紛れもなく自分のそれで。
まだ酔っているのか。それとも夢か。
千迅は痛む頭で理解の及ばない状況に混乱する。いくら凝視しても睛の前の状況は変わらない。混乱を収められないまま、とりあえず水でも呑むかと台所に行ってさらに驚いた。硝子窓に映る自分の顔が弟そのものだったのだ。
「おい、千尋、起きろ、」
そこで眠っているのが異母弟だという確信など一切ないにも拘わらず、千迅は咄嗟にそこにいる男を弟の名で呼んでいた。訳が解らなかった。不快そうに呻き声を上げながら男が睛を醒ます。
「ちはや……。何時だよ……。まだいいだろう……。」
背中を丸めながら寝起きの舌足らずな口調で千迅に云い返すその様子は、千迅の知る千尋そのものだった。
「おい。睛を開けろ。こっちを見ろ。」
千迅が必死に云うと、いかにも面倒くさげに寝返りを打って睛を開ける。斑に覚醒した男の表情が、徐々に輪郭を整え驚愕の色に変わる。
「はっ、」
大きな声を上げると千迅に掴みかかる。襟首を引いてまじまじと顔を覗き込まれると、最早この奇怪な状況は千迅だけの夢や幻ではないことがはっきりする。
「な……んだよ、これ……、」
千尋より先に事態を把握していた千迅は、自分の顔が睛の前で絶句している状況に、焦り以外にもおかしみを感じ始めていた。
「訳が解らないよな。ひとまず水でも呑むか。」
千迅は食卓に置いたままにしていたグラスを二つ取ると、簡単に洗って水を注ぐ。
「おい。なんだこれは。俺はまだ夢でも見ているのか。」
千迅の方を覗き込む千尋は途惑いを隠せない。
「俺もさっぱり解らない。だが、どうも俺たちは入れ替わっているようだな。おまえ千尋だよな。」
「おまえこそ千迅だよな。中身が変わるって、そんな莫迦なこと……、」
「尋常ぢゃないのは確かだな。外で云ってみろ。病院に連れて行かれるぜ。」
「本当になんなんだよこれ。どういう仕掛けなんだよ。」
ふたりの間に起こったこの現象は、理屈や科学での説明はできそうにない。
「何か罰当たりなことでもしたんぢゃないのか、おまえ。」
いくらか状況に適応し始めた千迅は千尋を揶揄う。
「それを云うなら千迅だって同じだろう。拾ってはいけないもの、越えてはいけなところ、喰っちゃいけないもの。何か手を出したんぢゃないの、か……、」
と千尋が云ったところでふたりの睛は同じものを注視する。空になった一升瓶は食卓の上で朝日を浴びていた。
「……この酒、どこのなんだろうな、」
「いつもどおり親父のヤツ、出所は云わなかったんだよな。」
「ああ。聞いても教えてくれなかった。」
「売り物か、これ。」
和紙のラベルには豪快な筆遣いで吟醸酒の名が書かれているが、蔵元などの情報は一切見当たらない。異様に旨く、酔いが回るほどに半端ではない多幸感を憶えた酒だった。何か、普通の酒ではない予感があった。
「天狗の酒でも呑まされたのかもな。」
千迅は自身の云ったことを信じているわけではなかったが、そうつぶやくより他なかった。中には一滴も残っていないため、検証のしようもない。
その後、ふたりが途方に暮れながらその日一日を過ごしても、晩に眠りについて翌朝に睛醒めても、状況はまるで変わらなかった。二泊三日のうちは池畔の家でやり過ごしたが、千迅の休みはそこまでだった。大学が夏期休暇中の千尋は暫く出勤する必要はなかったが、問題は千迅だった。有休の申請を伸ばそうにも、いつまでこの状態が続くのか見当もつかない。さすがにどうしたものかと判断しかねていると、
「俺が出勤しようか。」
千尋が云った。
「……正気か、」
「都内の道はそこそこ解る方だぜ。それにドライバーっていうのは要するに外勤ってことだろう。オフィスにいなくてもいいなら、バレる可能性も低いんぢゃないか。」
一理あった。千迅の勤務は、出勤時間に営業所に行き車を出した後は、予約客の迎車で事務所には戻らないことも多い。やり過ごせる可能性はあった。
この不可解な現象の解決方法も、いつまで継続するのかも見通しはまったく立たない。長期化する可能性さえあった。そのため一日一回の電話連絡を約束し、千迅は千尋に業務内容のレクチャーを行った。
◇
氷川のキスに翻弄されながら、千迅は必死に千尋のことを思い出していた。キスをされているときの、千尋の反応、動き、感じ方。千尋は快楽の受容に貪欲だ。されるがままキスを受け入れているようで、自分の欲情を相手がどこまで引き出してくるのか挑発している節があった。
舌先と付け根、口蓋、歯列、頬裏。咥内のどこを愛撫しても千尋は敏感に反応をするが、それはあくまで彼の感度のよさゆえであり、キスをしている側の力量とは必ずしも相関しないところがあった。
そんな千尋のキスのされ方をなぞりながら、千迅は氷川の口づけを受け入れる。拒絶することは考えなかった。躰は既にその気になっている。好奇心もあった。いずれにしろ、こんなことでもなければ、千迅が氷川と肌を合わせることなどなかっただろう。千尋の躰が感じているのか、千迅の心が悶えているのか。区別などつくはずもなかったが、そんなことはどうでもよくなるほど、熱を上げられる。
氷川のキスは、最初から貪るように激しく千尋を求めていた。そんな無遠慮で欲を隠しもしないキスを交わす程度には、ふたりは狎れている。そんな想いが千迅の胸を昏くを焦がすが、その間も舌を吸い上げられて、鼻を通る嬌声が洩れる。堪らなく気持ちが悦かった。
「今日の千尋さん、可愛いですね。」
瞬きをした千迅がことばを継げずにいると、
「されるがままで、可愛い……、」
千迅が睛を見開いて抗議をしようとするも、あっという間に抱き込まれてまた唇を奪われる。今度は容赦なく反応している下半身を千尋のそこに押しつけて浴衣越しに擦り上げる。氷川の興奮の度合いが伝わってきて、思わず千迅も氷川の首元に腕を回す。焦れったい刺激におかしくなる。いつのまにか氷川の手が千尋の肌にふれている。肩から浴衣が落ちる。
「千尋さん……、ね……舐めて……、」
キスをしながら千尋のそこを握り込んでは擦る氷川が、自身も慰めてほしいとねだる。また千迅の胸で仄暗い炎が揺れる一方で、千迅の喉は鳴った。したかった。
「しっかり腰を振れよ。」
千迅は熟れた睛で氷川を見上げると、股を割って下着を下ろす。氷川のそれは既に反り上がって濡れていた。可愛いのはどっちだと愉悦を浮かべながら、二度三度と軽く舐めると千迅は一気に喉奥まで含んだ。氷川の動揺が肌を伝わる。千迅は愉快でならず、反射的に訪れる吐き気をやり過ごしながら喉奥を締めたり開いたりして氷川の先端を愛撫する。舌先で舐ることも忘れず可愛がれば、一層そこは膨らんだ。
千迅は容赦なく攻め立たてたので、やがて耐えられないといった風に氷川の腰が揺れ始める。察した千迅がその腰を撫でてやると、遠慮がちに前後に動かし始めたので尻を叩いてやる。何のために奥まで咥えたと思っているんだ。氷川の躊躇う様子に、ここまでは千尋ともしたことがないんだなと、千迅は優越感に浸る。千迅に促されて、氷川のストロークは途惑いながらも速度は増し、やがて千尋の頭を鷲掴みにして快楽を追った。
荒れた息と粘度のある水音だけが室内に満ちる。ただ達するためだけに動く氷川の動物的な衝動が千迅の興奮も煽るので、嘔吐きそうになるのを必死で耐える。
女にはできないことを、多少は千尋としていたのかもしれないが、基本的には千尋のことは大事に抱いていたのだろう。千迅は氷川の人柄からそう思う。その関係を壊乱する、昏い欲望。
相手をまるでもののように扱い、その人格、苦しみを無視して快楽に呑み込まれるのは、気持ちがいいだろう。だが、これは今後千尋とはできない。そんな快楽の有り様を氷川に植え付け、二度と味わえない飢餓を与える愉悦。
「っ……ッ、」
イクとも云わず、限界を迎えた氷川はそのまま千尋の咥内に精を放つ。想定していたこととはいえ、千迅は噎せながら自らの掌に氷川の白濁を吐き出す。粘液はどろりと尾を引いて千迅の唇から糸を伸ばした。
千迅は傍にあったティッシュで手と口元を拭うと、口を濯がないまま氷川の咥内に舌を捻じ込む。氷川が眉をしかめたので満足した。苦いだろう、それは。
「気持ちよかったか。」
問われた氷川は顔を紅くして俯く。千迅はその様子にからからと笑い、洗面所に口を濯ぎに行こうと立ち上がるが、腕を取られて引き戻される。
「これでお仕舞いですか、」
ぞっとするほど低い、獰猛な獣の呻り声だった。千迅の肚の底がぞわりと震える。喰われる快楽が急速に千迅を満たした。血が沸騰する。勿論これで仕舞いにする気などなかったが、勿体つけるように振り返る。
「……今度はここに出してくれるんだよな。」
氷川の手を取って千尋の肚を撫でさせると、千迅の挑発に氷川は最初と同じように貪るようなキスで応える。
千迅の方も、二度と氷川に抱かれることはないだろう。この熱情を欲しても二度と手に入らないのは自分も同じかと思うと、寸分も余さず呑み込むために、千迅は氷川にされるがまま押し倒された。
◇
日の光を感じて氷川の意識は覚醒した。昨晩は幾度も千尋を求めて、果ててはまた繰り返した。どこかいつもと違う千尋に夢中になって、空の色が変わり始めたのを見た憶えはあったが、おそらくその後に意識を落として、やがて眠ってしまったのだろう。
いつもの氷川を翻弄する千尋とは微妙に異なる、あまりにも大胆で挑発的な千尋だった。まだあんな顏を隠していたなんて。そんな物思いをしながら瞼を開けると、傍らにいたはずの千尋がおらず起き上がる。驚いて室内を見渡すと、半分だけ開いた障子の向こうの縁側で、煙草を喫う千尋の姿が見えた。
「珍しいですね。」
氷川が声を掛けると、前をはだけたままの千尋が振り返る。気怠そうに、早いなと氷川に応えるその姿に得心がいった。昨日のどこかいつもと様子の異なる千尋と、重なるひとの姿が。
「千尋さんが煙草喫っているの、初めて見ました。なんだか千迅さんみたいですね。」
氷川の軽い一言に、千尋は喫みかけた烟を詰まらせたのか大きく咳き込んだ。泪を浮かべながら苦しげに咳をしているが、なぜだか千尋は噎せながらも心底おかしそうに笑っていた。