春の夢

※ツイッタの相互さんのお誕生日祝いに書きました!相互さんの言われていたこと色々織り交ぜております。このふたり、実はとても相性よくないですか?「白昼堂々」のラストでの車内の会話がよいですし、ふたりともあまりにも早く大事な人を喪っている心の傷は共感できるものだし、おそらく作中一の体格差!(重要)ちなみにこちらは凜一さんも久穂ちゃんも日菜さんも千迅さんも全部込み込みの氷尋です。そんな倫理観のない氷川さん無理です!という方はお戻りください(兄さんは通常運転)

 

    ◇

 

 引っ越しの片付けが落ち着いたら遊びに来るといい。明倫館大学への進学を迷っていた氷川の相談に、何くれと乗ってくれていた千尋に上京の挨拶の電話を入れたところ、当たり前のようにそう云われた。千尋とは、それまでは凜一を間に挟んだごく私的な関係だったが、明倫館の学生になった氷川と、そこで英文学を教える講師の千尋とでは、これまでと立場が異なる。その誘いに氷川が躊躇っていると、気にすることはないよ。うちの大学はそう堅苦しくないし、この家に学生が来ることもあるんだ。とごく軽い調子だった。それならばと、氷川はごく近い日に訪ねて行くことを約束した。
「よく来たね。」
 まだ春休みだった。氷川はフットボール部に顏を出した後の夕刻に池畔の家に赴いた。出迎えた千尋は生成りの浴衣のくつろいだ姿だった。
「遅くなってすみません。少し顔を出すつもりが、春期のリーグの話になってしまって。」
「そりゃあ期待のクォーターバックが入学したんだ。熱も入るだろう。俺も今年のリーグ戦が楽しみだよ。」
 氷川は千尋の後について靴を脱ぐ。玄関花は土物の花入れに小さな白い花だった。
「それは白山吹だよ。庭に植えているんだ。」
 氷川の目線に気づいた千尋が云う。
「山吹って黄色ぢゃないんですか、」
「その山吹に似ているから白山吹って名前なんだ。花の付き方がよく似ていて、開花の時期が同じだから。同じバラ科だが山吹はヤマブキ属、白山吹はシロヤマブキ属で別ものだ。こいつは山吹より湿度を好むんだよ。ここは裏に池もあるから、植栽するならシロヤマブキの方が向いているんだ。」
「千尋さんは花も挿されるんですね。」
「茶道家の親をもったらそうなるんだよ。」
 氷川は、千尋が花も挿すことを凜一から聞いて知っていた。誰に習い、どうして辞めたのかも。ただ本人の口から聞いたわけではないため、さわりだけを迂遠に訊ねたのだが、氷川の問いに千尋は苦笑まじりに笑うばかりだった。
「早く入れよ。飯を用意しているんだ。」
 夕飯は於じまの仕出しだという。氷川が恐縮すると、合格祝いだと云う。食卓には既に重箱に詰められた懐石料理が並んでいた。千尋は着席を勧めると、氷川のグラスに麦茶を注ぎ、自分のそれにも同じものをつぐ。下戸の氷川に合わせるようだった。
「それぢゃあ改めて、合格おめでとう。」
「ありがとうございます。」
 軽くグラスの縁を合わせる。硝子の触れ合う固い音を皮切りに、ふたりは箸をとる。箸を動かし始めても話題は尽きなかった。フットボールのこと、理工学部の教授連の話、京都での暮らしのこと、そして凜一のこと。
「凜一とはどうなんだ。」
「変わりないと思いますけど、どうかな。頻繁に連絡をとるわけぢゃないから。」
「氷川くんからしない限り、凜一からは連絡してこないと思うぜ。そういうヤツだから。」
「千尋さんにもそうなんですか。」
「限界まで我慢するからな。甘え下手なんだよ。生育環境がそうだから仕方ないかもしれないが。」
 軒下に見えていた月はいつの間にか姿を消す。時折風が戸を揺らす以外は、静かな夜だった。あれこれと話し込むうちに重箱の中身も空になる。
「さすが運動部だな。この量を凜一と食べたらいくらか残るんだが。まだ足りないんぢゃないか。」
「いえ。ここに来る前、部の方で少し食べたので。」
「遠慮はするなよ。こっちは学生の腹を空かせたままにしておくわけにはいかないんだ。」
 最後の水物に手をつけながら、千尋はしきりに氷川の腹具合を気にした。面倒見のよさが表れていて、氷川は自然と笑みがこぼれた。亨介、まだ食べるか。夕飯のおかずが残れば、必ずそう訊ねてくれるひとが、氷川にもいた。
 食卓の片付けを手伝いながら氷川が辞去するタイミングを窺っていると、千尋は泊まっていけばいいとあっさりと云う。確かにすっかりと夜は更け、氷川が帰ろうとしていた時間よりも遅い。下宿まで戻ろうにも、バスがあるか微妙な時間帯だった。
「本当にいいんですか。」
「構わないよ。風呂を立てるから座っていてくれ。」
 すべての食器を洗い終えると、千尋は居間を出て風呂場に向かった。氷川は残ったグラスを拭くと、居間のソファに腰を下ろした。開け放たれた広縁から庭を眺める。暗がりに繁る葉は夜陰を吸い込んで一層濃い色をしていた。裏手の池のせいだろうか。水の気配がかすかに漂う。
 ジーッ……。ジーッ……。ジーッ……。
 静寂を破ったのは虫の音だった。庭先で絶えず鳴き騒ぐ。
「ああ。鳴きだしたか。」
 風呂場から千尋が戻る。
「ミミズぢゃないぜ。」
「オケラですか、」
「ああ。白山吹と同じなんだよ。あれも水があるところを好むだろう。棲みつかれているんだよ。一度鳴きだすと騒がしい。」
「オケラは植物の根も喰い荒らすでしょう。庭の草花がやられませんか。」
「しょっちゅうだよ。どうにかしたいんだがあれでも希少種だろう。それに水がないんぢゃ一晩も生きられないっていうぢゃ、駆除しようってこっちの手も鈍るんだよな。」
「オケラいいですよね。水陸両用でしかも飛べるのがよくて、子どもの頃は春先の田んぼでよく探しました。」
「へえ。虫取り少年だったんだな。うちのでよかったらいくらでも持って帰ってくれていいんだぜ。」
「いいですね。手がモグラのみたいで可愛いんですよ。」
 千尋はなんとも云えない顏をした。虫はあまり好きではないのかもしれない。
「着替えとタオルは脱衣所に用意したから使ってくれ。」
「何からなにまですみません。」
 風呂はそこの廊下を曲がった先だからと、背中越しに伝えられる。食事のときから思っていたことだが、風呂場への廊下に埃は見当たらず、居間も以前訪ねたときと変わらずこざっぱりと片付いていた。家主の気質が見て取れる居心地のいい家だった。浴槽も広く、上背のある氷川でもいくらか足を伸ばすことができた。
 しかし風呂から上がった氷川は、困惑しながら居間へ戻ることになる。
「あの、千尋さん、」
 縁側に座っていた千尋が振り返る。
「ああ。上がったか。」
「あの、これ、合ってますか、」
「ははは。浴衣は着ないか。」
「着ませんよ。茶道家の家ぢゃないんで。」
 湯上がりに用意されていた浴衣の寝巻だった。見よう見まねで着てはみたが、正しいのかはあやしい。木綿の紺地に紗綾型の寝巻だった。
「ちゃんと右前だし、あとは寝るだけなんだ。帯も結べていれば上等だよ。悪いね。氷川くん、俺より上背があるからさ。それぐらいしか着てもらえるのがなくて。」
 云われてみれば氷川の背丈と合う浴衣だった。千尋の背は氷川より拳ふたつ分ほど低い。
「……もしかして、」
「気にしないでくれ。久々に着てもらえてよかったんだ。俺ぢゃ身に余るから。」
 そう云った千尋は躰の影にあるものを手に取る。猪口だった。よく見れば盆の上には硝子の徳利もある。
「なんとなく呑みたくなったんだ。布団はその先の客間に敷いたから、先に息んでくれたらいいよ。」
 千尋は平生と変わらない顏だった。徳利の中は残り僅かだった。氷川は千尋の隣に腰を下ろした。
 ジーッ……。ジーッ……。ジーッ……。
 沈黙するふたりの間にオケラがまた鳴き始める。
「……酒が呑めないっていうのは、難儀だよな。」
「どうしてですか、」
「云い分けができないだろう。」
「云い分けが要るんですか、」
「君に必要だって云っているんだ。」
「必要ないですよ。俺は、」
 ことばを短く切った氷川は、千尋の腕を引き寄せる。千尋も抵抗しなかった。
「……きみは本当にどうかしているよ。」
「お互い様ぢゃないですか。」
 ふたりを隔てるのは薄布一枚で。もう庭先で鳴く虫の音は耳に入らない。