夏の雨

※池畔の家で肌を合わせる氷尋のお話。亡くなったひとに囚われ続ける心が、引き寄せ合うふたり。

 

 ◇

 

 夏の雨は熱を奪わない。雨に晒された熱は、蒸れて水分を帯びると身に纏わりついて離れない。だが、既に汗で躰を滑らせ合う氷川と千尋にはさほど関係のないことだった。
 氷川の下で千尋は息を荒らす。年長者としての経験の豊富さからか、氷川が執拗に攻め立てても、千尋は過ぎる刺激を快楽へと変えて享受する。揺れる腰に誘い込まれているのは氷川の方かもしれなかった。
 時折、雨音が耳につくがすぐに忘れる。終わればまだ足りなくて、また始めから繰り返す。張りのあったシーツには皺が寄り、その上を幾度となく白濁が汚した。あられもなく身悶える千尋の姿は氷川の情欲を一層そそる。感極まる千尋の、絞り出すような声が響く。氷川はもう随分と、千尋の躰に狎れていた。
 千尋とは、いつも何も云わずに始まった。水の気配のするこの家は、いつも氷川の何かを狂わせる。もしかすると千尋にとってもそうなのかもしれなかった。
 この家にふたりきりでいると、きまって遣る瀬なさが共鳴した。普段は睛を逸らしてやり過ごす空洞を、殊更に隠し立てしなくてもよいのが心地よく、飽くまで空洞を眺め囚われることにお互い了解があったので、水が流れるように、氷川は千尋と肌を合わせた。
 氷川は千尋をうつ伏せにさせると背中から穿ち、より奥へと侵入する。千尋はシーツに額をこすりつけて感じ入っていた。唇か、枕のカバーか。千尋は何かを噛みしめているのか、声がくぐもってよく聞こえなかった。
 もっとその乱れた声が聴きたいと、氷川は千尋の中を弄りながら、その口にも指を突っ込んだ。指先は忽ち濡れて淫らな音を立てる。弾力と柔らかさのない交ぜになった舌の肉感はすぐに氷川を夢中にさせた。事態を把握した千尋の舌は、すぐに氷川の指に絡んで吸い上げる。下の悦いところに当たると加減ができない様子で歯が立った。口に含むそれを噛まないよう堪える千尋の口からは、自然、氷川の求める濡れた声が溢れ出る。まるで誰かを呼ぶように。氷川にはいつもそう聞こえた。
「呼びたいひとの名前で、呼んでいいんですよ。」
 千尋の背中越しに耳元で囁く。この熱も、情欲も、本当は向けられるべきひとがいて、その軋みが氷川の胸にも沁みて締め付けた。雨の音が聞こえた。千尋が呼べばきっと、その人の幻は千尋の睛に立ち現れただろう。けれど。
「……亨、介……、」
 組み敷かれている千尋はすっかり溶けた睛で氷川を振り返る。そこには理性を置き去りにした剥き出しのままの千尋がいて、恍惚としてに氷川の名前を呼んで喘ぐ。
 誰も、氷川を亡兄の代わりとは思っていない。皆がそれぞれに不在となったひとを心に残していて、そのためにほんの少しすれ違うだけのことなのだと、そう解っていても、氷川は塞がらない傷口を持て余した。氷川が亡いひとを慕えば慕うほど、その影は濃くなり氷川の境界を脅かす。光が射す限り、影は濃淡を変えながら氷川の傍を離れない。
「きょ……す……け、」
 うわごとのように千尋は繰り返す。誰よりも呼んでほしかった名前を、誰と違えることもなく呼ばれたので。氷川の頭には血が上る。強引に千尋を反転させると、力任せに抱き込んで強く楔を打った。千尋がまた、小さく悲鳴を上げた。窓外では雨粒に打たれた未央柳が花弁を揺らした。