キスマーク

 夏休み明けの気怠い放課後だった。生ぬるい残暑の風が教室のカーテンをはためかせている。ホームルームが終わった教室には、部活に行くでもなく、かといって帰宅するでもない男子生徒達が屯していた。教室の後方に車座になって他愛のないことを喋る。加納は窓側に配置されたロッカーに腰掛けて飛び交う話題に耳を傾けていた。
「四組の萩原、瀬名とヤったらしいぜ。」
「はあ。嘘だろう。あの瀬名か。」
「おう。マジらしいぜ。瀬名にキスマがあったって云ってたヤツがいる。」
「瀬名とか羨ましすぎるだろう。萩原のヤツどうやって落としたんだよ。俺も瀬名に噛みついてキスマ付けてえ。」
 瀬名というのは学年でも美人と評判の生徒で、成績、運動ともに優秀で学年でも一目置かれる存在だった。それに対して萩原は特段目立つような生徒ではない。ふたりはクラスが同じであるだけで、周囲から見れば意外な組み合わせと云えた。
「加納、萩原と仲良かっただろう。何か聞いてないのかよ。」
 話は萩原と同じ天文部に所属する加納に振られる。
「あいつとは部活の話しかしていないから、俺も何も知らないぜ。」
「なんだよ。くそお何で萩原なんだよ。あいつ全然だろう。」
 加納は話の矛先が萩原の中傷に傾きかけていることに気づくが、どう止めればいいのか解らない。
 実のところ、加納は先ほどの問いかけに白を切っていた。本当は夜間の学校に残って天体観測をする間、加納は萩原から瀬名との話を何度も聴いていた。時には瀬名が天体観測に参加することもあり、ふたりが付き合っていることを誰よりも早く知っていたのは加納だった。
 萩原は決して目立たないが、優しく人を見下しすことのない男で、そんな萩原のよさに気づいた瀬名は見る目があると、加納は密かに感嘆していたのだ。
 だから、加納は萩原と瀬名のことが噂話程度の話題として上がるなら聞き役に徹して余計な口出しはしないようにしていたのが、話が萩原への中傷へ向かうならどうにか止めたかった。
「萩原はいいヤツだぜ。」
 萩原がどう口を挟めばいいか逡巡している間に声が掛かる。加納の斜め前のイスに座る英だった。
「俺はあいつと同じ委員会だが、仕事は最後までやるし周りのことがよく見えていてよく気が回るヤツだ。瀬名は見る目があるんぢゃないのか。」
 英が屈託無く笑うと、「そうかもしれないけどよ。」と云いながらも萩原に対する厭な雰囲気は霧散する。加納はほっとして英の背中を見遣った。
 英は加納達の学年の万年首席で、怜悧に整った容貌から一見すると近寄りがたい雰囲気が漂うが、いざ話してみると存外に気さくで、こうした放課後のくだらない話の輪にもよく加わっていた。
「大体噛みつくって何だよ。それぢゃ歯型が付くだけだろう。」
「うるせえな。訳知り顔しやがって。」
「痕付けたいなら吸ってやれよ。折角のチャンスを棒に振るぜ。」
「おい。まさかおまえまで済ましたんぢゃないだろうな。」
「莫迦だな。それぐらいのこと知っているだろう。」
 話題はすっかり英の方に移り、いつものくだらない猥談が繰り広げられている。加納は英に感謝しながら話に耳を傾けようとするが、ふとその襟足の先に紅い痕があるのが見え心臓が跳ねた。ロッカーに腰掛ける加納はイスに座る英を見下ろす格好となり、カッターシャツの襟の奥が睛に入る。その首元と肩には紅い痕が点々と散り、首の根元のあたりには歯型がくっきりと残っていた。
(これってまさか……、)
 加納は思わず顔を背ける。何でも無い顏をして談笑する英の横顔を見ながら、同級生の過ごしたそれぞれの夏休みは、本当に解らないものだと思った。

  ◇

「おい……おまえは加減っていうものを知らないのか。」
 千迅は鏡の前で溜息をついた。鏡越しでしか見えない背中には、鬱血の痕とくっきりとした歯型がいくつも残っていた。
「夢中になると訳が解らなくなるんだ……。」
 まだシーツにくるまる千尋は、言葉だけは殊勝だがその顔は満ち足りた笑顔で、確信犯であるのは間違い。
「明後日から学校だぜ。着替えのときどうしてくれるんだよ。」
「見せたらいいぢゃないか。ちゃんと千迅にはそういう相手がいるんだって解ってもらえるぢゃないか。」
「おまえのところの男子校とは違うんだよ。誰に見せつけるんだよ。」
 千迅は背中に残る情事の痕跡に、あからさまに溜息をついて千尋を責めるが、千尋はどこ吹く風で満足げにその背中を見つめていた。