熱情

月の明るい夜だった。広縁に腰掛けた伝九郎はぼんやりと夜空を見上げていた。
「どうしたんだ伝九。物思いか」
 奥で書き物をしていた成信は、一区切りがつくと伝九郎の傍に侍った。伝九郎は成信が傍らに来ると、にかっと顏いっぱいに笑って喜んだ
「もう書き物はいいのかい信さん」
「ああ。待たせたな伝九、今日の仕事はどうだった、精は出たかい」
 毎夜寝る前にひとときに、その日あった互いの出来事を語ってきかせることがふたりの間の日課になっていた。伝九郎は日中の堤防工事の出来事を、成信は最近覚えた庭仕事のことを、月が傾くのも気にせず、気の向くままにふたりは話をする。
「はは、本当に伝九の話は愉快だな、おまえからはお天道さまたの匂いがしてきそうだ。」
「馬鹿いっちゃいけねえよ、おらあ毎日汗だくで働いているんだぜ、そんな上等なもんじあねえやい」
「それは試してみないとわからないだろう、伝九こちらへ寄ってみろ」
「―それはいくら信さんでも勘弁してもらいてえなあ」
「まあそう言うな、減るものでもないだろう」
 逃げようとする伝九郎の胸の内にすっぽりと収まってみせた成信は、すんと鼻を利かせて伝九郎の匂いを確かめる。
「うん、やはりおまえからはお天道さまの匂いがする」
 成信が満足して伝九郎を見上げると、伝九郎は首まで紅くしていたので驚いた。
「―伝九、どうしたんだい」
「―だから駄目だと言ったんだぜ、信さん、もう満足したかい、だったらもう今夜は休もうぜ」
「待ってくれ、なにが駄目だと言うんだ、説明してくれ伝九」
「―信さんは女とこういうことをしたことはないんだろう」
「女と何をすると言うんだ。幼少の頃からこの屋敷に移されるまで、おれは女といえば母上しか知らぬ」
「それならなおのこといけねえや、ほらもうここいらで今日はおしめえだ」
 伝九郎は成信の軀を押し返して距離を取ろうとするが、成信は納得できなかった。あの紅い顔の伝九郎が瞼に焼き付いて離れなかった。
「いやだ伝九。おれがものを知らぬのがいけないのか。だっただおまえがおれに教えてくれ」
 成信は伝九郎の襟元を掴んで離さなかった。必死に食い下がる成信の目は熱に潤んで伝九郎を見上げる。伝九郎の喉が鳴った。
「―信さん、おらあはさっき、あんたにこんな風にふれてえと思ったんだ」 
 伝九郎は襟元の成信の手を取ると、するりと指と指を絡めた。それは成信とは違う、荒れてかさつく外で働く男の手だった。成信の心臓がどっと大きな音を立てた。伝九郎は絡めたままの指で成信の手の甲をさすると、指の股を思わせぶりに撫でて、爪先を可愛がった。そんな風に誰かにふれられることは初めてだった。
「なあ、あんたはおれのことを好いてくれてるたあ思うけどよ、こういうことじやあねえだろう」
 いつもの勢いの良い口ぶりはなりを潜めて、まるで子どもに言い含めるように伝九郎は言った。
「だから今のことは忘れてよ、またいつも通りにしようぜなあ」
 伝九郎は指を離すとにっこりと笑った。堪らなかったのは成信だった。
「今のことは忘れると言うのは、伝九ももう忘れるということなのか」
「―おれは、すぐには忘れられねえさ、でもおれは信さんが嫌がることはしたくねえからさ、忘れたふりはうまくやってやるつもりだぜ」
 ああまただ。成信は胸中で嘆息した。伝九郎からはまた、生きた世の中の匂いがした。なにかを成信から遠ざけようとしながらも、成信が問えば真正直にその心根を答えてくれる。成信はいま感じていることをうまく言葉にできなかったが、それこそが世の中のことを何も知らない己とって必要なことだと思った。
「伝九、おれはいまおまえにふれられてもちっとも嫌だとは思わなかった」
 それがなにを意味しているのか成信にはまだよくわかっていない。だが真正直な気持ちだった。気恥ずかしくて口にはできななかったが、あれでやめて欲しくないとも思っていた。
「―信さん、それは、そのどういうつもりで言っているのか、ちゃあんとわかって言っているのかい」
「―伝九が言っていることがわかっているのか、わからない。だが、あれで、終わりには、してほしくない……」
 成信がおずおずと口にすると、途端に大きな影が成信を包んだ。背と腰を抱かれて、お天道さまの匂いが成信の鼻腔いっぱいに漂った。
「おれは信さんに嫌われるのがつらい、だから信さんが嫌がるようなことはしたくねえ、だが信さんのことをこんな風に抱いておれだけのものにしたいとも思っている、いいか信さん、おれはめえのだれもさわったことのないようなところまでさわって、全部をおれのものにしちまいてえって思っているんだ、嫌だと言うならいまのうちだぜ」
「伝九にされて嫌なことなんかあるものか、おまえがさわりたいというならどこでも好きにさわればいい」
「―信さん、もうあとから嫌だと言ってもやめてやれないぜ」
「なあ伝九、ご託はもういいからどうしたいんだ、おまえのしたいことをしてくれないか」
 成信はきつく抱きしめてくる伝九郎の軀から腕だけをどうにか逃がすとその背中にそっと回した。伝九郎の軀が固く緊張しているのがわかる。こんな男にひどいことなどされるわけがないと成信はほんの少し緊張を逃がす。
「―口を吸ってもいいかい」
「ああ、吸ってくれ」
 言うが早いか伝九郎の口が成信の唇を吸った。成信は反射的に固く目をつむってそれを受け入れた。頭の先から爪先までくらくらとして力が入らなくなる。二度三度と口を重ねると酩酊は一層深くなり、ぞわぞわとした感覚が腹の中を走り回った。こんな感覚は味わったことがなかった。未知の感覚におそれを覚える一方で、それ以上に成信はその感覚に夢中になった。
「なあ信さん。口を開けられるかい」
 既に力が入らなくなっている成信の軀を支える伝九郎は、何度目かの口吸いの間にそう訊ねた。熱にうなされて何も考えられなくなっていた成信は、言われたとおりに口を開いて伝九郎を待つ。まいったなあという伝九郎のつぶやきがきこえたと思った瞬間に、成信は雷に打たれたように身動きがとれなくなった。
 伝九郎の舌が、成信の舌に絡みついて吸い上げたのだ。びりびりと腰が痺れて脳裏にちかちかと火が散った。肉厚な舌先に翻弄されて息の仕方も忘れた。
「ん……、ふっ……」
 勝手に洩れ出る己の声に成信はひどく羞恥した。どうしてこんな声が出てしまうのか見当もつかなかった。けれど少しもやめて欲しいとは思わなかった。もっとふれて欲しくて頭がおかしくなりそうだった。
「信さん。どうだい、嫌じやあないかい」
 成信の咥内を散々に荒らした後、伝九郎はどこかおろおろとした様子で成信に訊ねた。
「おれはもう少し加減ができるかと思ったんだが、あんまりにも信さんがしどけねえから、つい調子に乗っちまったんだ。なあ信さん、嫌じゃなかったかい」
「―言わせるな馬鹿者」
 成信は伝九郎の胸に顔をおしつけるのが精一杯だった。
「はは、こりゃあ伝九はとんだ果報者かもしれねえなあ」
 伝九郎は胸にしがみつく成信を抱きかかえたまま横になった。月が明るく照らし出す夜だった。
「こんどは信さんの方がお天道さまみたいになってらあ」
 天地がひっくり返ったことに驚いた成信が顔を上げると、その顏を見た伝九郎がうれしそうに言った。言われた成信は恥ずかしさのあまり、再び伝九郎の胸に顔を埋めた。一層伝九郎のことが好きになったと思った。