空蝉

 今日の講義は前もつて休講が言ひ渡されており、志学は仕事、山彦は幼稚園で真帆はその保護者会に出席するため不在、高宮家には留守番の体で寵だけが在宅してゐた。
 在宅とは言っても寵は与えられてゐる離室に留まつて、本を読んだりレコードを掛けたりと時を気にせずけだるく過ごしてゐた。母屋には義兄か姉がゐるとき以外は極力足を踏み入れないことを居候の身上として心得てゐた。
 いい加減な昼食を摂った後、読書にも飽きた寵が瞼を閉じてうつらうつらとしてゐると、軒を叩く音が耳について目を開ける。大粒の雨がぽつりぽつりと庭の乾いた飛石を濡らし、やがて線となつて降りしきる。開け放したままの窓からは雨の匂いが這ひ寄つた。
 無為な時間に躰を預けて雨音に耳を傾けてゐると、母屋の玄関戸の開く音がする。姉が帰つたのだろうとぼんやりとしてゐると、どたりどたりと不器用な音、まさかと思い傘を差して母屋に向かへば、ぐつしょりと濡れたシャツを肌に張り付かせた志学がゐた。
「やあ寵どうしたんだ、今日は大学は。ああそう言えば休みだと朝言つていたかな。吃驚したよ急に雨が降つてくるもんだから」
「どうしたはこつちの台詞だよ義兄さん。今日は昼から降るつて予報でも言つてゐただろう。傘は持つて行かなかつたのかい。ああそんなに濡れているのにタオルで済ますやつがあるかい。躰が冷えるだろう早くシャワーを浴びてきな。着替えは出しておくから」
 志学の濡れた白いシャツからは肌が透けて逞しい広背筋が顕はになる。寵は濡れ鼠の志学を風呂場に押しやると、姉夫婦の寝室から着替えとタオルを取り出して脱衣所に足を踏み入れた。
 曇り硝子の浴室では、雨に降られたことも忘れたやうに上機嫌に湯を浴びる志学の影が映る。寵は脱衣籠の横に着替えを置いてすぐさまそこから出ようとするが、洗濯機の縁に引っかけられたシャツが目に入ると、思はず手を伸ばす。
 寵の躰よりも一回り大きなシャツは、とつくに熱を失つて冷え冷えとしているが、そこによすがを見つけたい寵は、自身が濡れるのも厭わずその空蝉を抱きしめる。せめて彼の人の匂いがないかと鼻先でシャツに触れるが雨の匂いの他は何も感じられず、寵は遣る瀬なさに固く目を瞑ると、濡れた大きなシャツの襟に跡の残らない口づけをした。
「義兄さん着替えを置ひておくからね」
 何気ない声を装ひながら洗ひ場の志学に声を掛けると、濡れた服を取り替えるために傘を差して離室に戻つた。