※迅尋前提のモブ尋になります。千尋さんがモブくんをもてあそんでいます。モブ視点のお話です。苦手な方はご注意ください。
蓮川が、女性よりも男の方が好きだと気づいたのは中学生の頃だった。相手はテニス部の後輩だった。気さくで優しいその子とは、テニスの話を中心に話しが合い、やがて部活が休みの日には連れ立ってスポーツ店に出掛けたり、互いの家で遊んだりするようになった。
当初は尊敬と友愛の入り交じったいたく真っ当な気持ちで付き合っていたのだが、部活中に滴る汗を拭う姿や、肩を組んで下校したときに感じたその体温の熱さをいつまでも忘れられない自分に途惑いを覚え始めた頃、後輩に恋人ができた。
後輩と同じクラスの女子だった。後輩の口から直接そのことを聴かされたとき、蓮川は自分の中に芽生えていた彼への感情が何だったのかを知った。照れながら嬉しそうに微笑む後輩の話を、笑って聴けたことが唯一の誇りだった。
それから中学を卒業し、高校へ進学した蓮川の心を掴むのはやはり男だった。この頃になると自身の性嗜好は疑いようのないものになっていた。高校で好きになった同級生にも何ひとつ伝えることができないまま、三年生の三月を迎えた。
高校を卒業した蓮川は地元を離れて京都の明倫館大学に進学した。とにかく地元を離れたい一心だった。自分のことを誰も知らない新しい土地で、恋人を作りたかった。見ているだけの恋はもう真っ平だった。そう意気込んで始めた新しい生活だったが、初めての一人暮らし、初めての大学生活で一回生の前期はあっという間に過ぎていった。
京都での暮らしに少しずつ慣れてきた七月の終わり、最後の試験を終えてようやく迎えた夏休みで、蓮川は大学に入学してから訪れることを心待ちにしていた店の前に立っていた。所謂ゲイバーだった。
祇園四条にあるその店は、一見すると普通のバーとは変わらない店構えだが、女性やストレートの男性は入店できない老舗のゲイバーだ。
実際にその店先に立つと期待よりも不安が勝り、蓮川は二の足を踏んでいた。歓楽街の裏通りにあるため人通りはそう多くないが、街のざわめきはすぐそこに感じられた。どうしようか、今日は止めておこうかと踵を返しかけたとき、蓮川の足元に影が伸びた。
「どうした。入らないのか。」
柔らかな声にはっと顔を上げると、背後に知らない男が立っていた。栗色の柔らかな髪に、色素の淡い睛、抜けるような白い肌に睛を奪われる。濃紺のスラックスに、薄いグレーのリネンシャツがよく似合っていた。
「初めて来るのか。」
その問いかけに思わず蓮川は頷く。
「せっかくここまで来たんだ。そう緊張するな。」
男は蓮川の背を押すとバーの扉を開いた。店内ではジャズが流れていた。
「やあ。千尋くんが友達を連れて来るのは珍しいね。」
カウンターでグラスを磨くマスターが男に声を掛ける。
「店の前で固まっていたんだ。ご新規さんだよ。酒は呑めるのか。」
「あ、はい。大丈夫です。」
姿のよい男にどぎまぎするのと、初めて入る店内の様子をきょろきょろと眺めてしまうのとで、蓮川は男の問いかけに応えるのが遅れるが、男は気にした様子なくカウンター席に腰を下ろして隣の席を蓮川に勧めた。
「マスター景気づけに何か作ってやってくれ。俺はカルヴァドスにトニックで。」
「かしこまりました。甘め、辛め、アルコールは軽めか強めか、お好みはありますか。」
マスターに問われた蓮川は、馴れないながらも味は辛め、アルコールは軽めでカクテルをオーダーする。出されたおしぼりで手を拭きながら、ちらりと隣を見遣ると睛が合った男が微笑むので心臓が跳ねた。
「ち、千尋さんって云うんですか、」
とても睛を見返すことなどできず、蓮川はカウンターの木目を見つめながら云った。
「ああ。親父が凝り性でね。上の兄弟から順番に十、百ときて、俺が千で千尋だ。」
千尋は先付けに出されたピーナッツを摘まみながらおかしそうに笑った。
「三人兄弟なんですね。」
「……まあ一応そういうことになるかな。」
千尋は苦笑めいてそう云った。引っかかりのある云い方が気になったが、そのまま名前を尋ねられたので蓮川の意識はそちらへ向く。
「あきらです。章という字にさんづくりで、彰です。」
「あきら……。」
蓮川の名前を聴いた千尋は、喉の奥でその名前を呟くとそのまま沈黙する。それまで陽気だった千尋の顔が一瞬で曇ったことに蓮川は途惑った。
「あの……、」
何か気に障ったのだろうか。心配になった蓮川は怖々と声を掛ける。
「……ああ。悪かったな。彰くんか。いい名前ぢゃないか。」
固い顔をして考え込んでいた千尋だが、蓮川に応えるうちに元の顏を取り戻す。蓮川は千尋の柔和な表情にほっとした。
「さあどうぞ。千尋くんにはカルヴァドストニック」
マスターがカウンター越しに差し出した千尋のグラスには、琥珀色で満たされ輪切りのレモンが浮かんでいる。
「彰さんにはジントニックです。一杯目なので軽めに作っています。また好みを仰ってくださいね。」
蓮川の前に出されたグラスには、三日月に切られたライムがグラスに縁に引っかけられている。ゲイバーはおろか、バーそのものにも初めて来た蓮川は緊張しながらそのグラスを手に取った。随分と大人になったような気分だった。
「ぢゃあ初めてのゲイバー来店に乾杯だな。」
千尋がグラスを傾ける。蓮川は怖ず怖ずとそのグラスに自身のグラスを重ねた。店の雰囲気や千尋との会話で忘れかけていたが、ここはゲイバーで、つまりは睛の前にいる千尋も男が好きな男というわけで、その事実に蓮川の心臓は音を立てて逸った。
「千尋さんも……男の人が好きなんですか、」
思い切って訊ねた蓮川に、千尋は色めいて笑む。
「初めてか。男が好きな男に逢うのは。」
脳が芯から溶けそうな声だった。腰がぞわりと震え、あっという間に頬が熱を帯びる。恥ずかしくて蓮川は顏を上げられなかった。
「どうだ。ドアの内側に入った気分は。」
入店を躊躇って店先で固まっていた蓮川を店内に誘ったのは千尋だった。あのとき声を掛けなければ蓮川は勇気を出せずに帰っていただろう。背中を押されて入ったバーの中は、ひとりで静かに呑んでいる者もいれば、思わず直視を避けてしまうほど密着する男同士の連れ合いもいる。
だが、見ていられないのは男女の過剰ないちゃつきに遭遇したときと同じ心理で、際どいやり取りに睛のやりどころがないのと同じだった。同性だから鼻白むという空気はない。
「来てよかったです……。」
蓮川は心からそう思っていた。ここでは男の人が好きだという気持ちを隠す必要もない。何よりそれが蓮川にはうれしかった。
「それはよかったな。」
くくっと笑った千尋がグラスに口を付ける。グラスを持ち上げるだけの動作でも、千尋の所作はひとつひとつが優雅で気づけばその動きを追ってしまう。琥珀に濡れる唇が熟れた果実にように紅く見えた。
馴れない場と隣に座る千尋に蓮川の気分は高揚する。ジントニックを空にした後も、マスターが蓮川の好みに合わせてカクテルを出してくれる。二杯目がトムコリンズというカクテルだと聴いたのを最後に、その後何を何杯呑んだのか覚えていない。ただ、千尋のきれいな横顔ばかりを眺めて、その顏はが瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
「……あれ……、」
車のクラクションや、歩行者信号のとおりゃんせのメロディーで蓮川は睛を醒ます。いつの間にか眠っていたらしい。頬を生温い風が撫でる。
「やっと起きたか。酔っ払い。」
耳元で千尋の声がする。驚いた蓮川が弾かれたように顔を上げると、揶揄うように笑う千尋の睛と合った。息がかかるほどに近い。状況が解らず蓮川は口をはくさくとさせた。
「おまえペース配分はよく考えろよ。バーで呑みすぎて潰れたんだぜ。用心しろよ。隣に座っているヤツがいいヤツだとは限らないんだからな。」
千尋は足元の覚束ない蓮川に肩を貸して、祇園の四条通りを御池の方へ向かって歩いて行く。繁華街は深夜でも人通りが絶えない。
蓮川よりも僅かに上背のある千尋の肩に蓮川の腕は回され、腰を支えられている。シャツ越しに感じる掌の感触に躰が熱くなる。
「タクシーを捕まえてやるから。家はどこなんだ、」
四条大橋の交差点までたどり着くと千尋は空車のタクシーを捕まえようとするが、蓮川はその手を遮る。
「……千尋さんはいいヤツなんですか……、」
千尋と離れがたい蓮川は、千尋のネルシャツを皺になるほど握った。千尋が睛を瞬くかせる。
「……さあね。相手によるんぢゃないか。」
「……悪いヤツに、なってください、」
酔いが蓮川を大胆にしていた。このまま千尋と離れることなどできなかった。立ち止まるふたりを避けて雑踏は流れていく。蓮川の熱のこもった睛に千尋は溜息をついた。
「参ったなあ。俺は年上の方が好みなんだけど。」
千尋は蓮川の腰を抱く手の力を強くすると、今来た道を戻っていく。
「男も、初めて、」
断定的な千尋の問いに、蓮川は顏を紅くしながら頷く。
「ふうん。……まあ、初めての男になってやるのも悪くないかねえ。」
蓮川の腰を抱く指が不埒な動きをする。思わせぶりな刺激が酩酊する蓮川の躰に興奮を呼び込む。
「休憩して帰ろうか。」
ぞっとするほど色っぽい声で千尋が囁く。人込みに逆らって歩く間、蓮川は何も云えずにただ俯いていた。
◇
祇園の切り通しの先にホテルがあった。千尋に連れられて中に入ると、フロントで鍵を受け取って部屋に向かう。受付と客が顏を合わせないように、窓口には色の付いたアクリル板が据え付けられていて、ここがいかがわしいことをするホテルなのだと意識させられる。
「それで。彰くんはどっちがいいの、」
部屋の真ん中に置かれたベッドに腰掛けた千尋が云った。
「どっち……、」
蓮川はベッドに座ることもできずただ問われたことを繰り返すことしかできない。千尋が苦笑する。
「タチがいいのかネコがいいのかってことなんだけど、要するに抱きたいのか、抱かれたいのか、どっちなんだ。」
抱く、というあまりにも直裁的な言葉が千尋の口から飛び出して蓮川は目眩がした。
「あの……、」
「正直に云ってみろよ。俺はどちらでもできるから。」
「……できるなら抱いて、みたいです……、」
震える声で蓮川が告げると、ベッドに座った千尋に腕を引っ張られてバランスを崩す。そのまま躰はベッドに乗り上げて、千尋が蓮川の下にいた。ふたり分の重みにベッドが軋む。千尋の手が蓮川の後頭部に回されて、そのまま唇が重なった。
「ちゃんとできるのか。酔っ払い。」
吐息のかかる距離で千尋が揶揄う。そのまま蓮川の前に手を回して反応を確かめる。キスをしただけで蓮川の前は固くなり始めていた。
「若いねえ。」
千尋が喉を鳴らす。
「男の抱き方、ちゃんと教えてやるから気持ちよくしてくれよ。」
興奮で蓮川の睛の前は真っ赤に染まる。蓮川は千尋に覆い被さると衝動のままに口付けた。しっとりと吸いつく唇に角度を変えて何度も触れる。やがて千尋の舌先が蓮川の唇を舐めて咥内に誘った。蓮川は夢中になってその舌先を捕まえて唾液を絡める。
「ん……っ、」
絡めた舌を強く吸われて蓮川は声を洩らす。おかしくなるぐらい気持ちがいい。口蓋を舐められると痺れたように躰が震えた。
「今してやったみたいに、してみろ。」
蓮川の耳を舐めながら千尋が云う。堪らなくなった蓮川は、千尋の腕を掴んでシーツの上に縫い止めると夢中になってその唇を貪った。
「ふっ……、」
絡めた舌を吸って、歯列を裏まで舐めて、奥から手前まで丁寧に口蓋を撫でると千尋が吐息を洩らす。気持ちよさそうに身動ぎをする千尋にさらに欲望がそそられ、蓮川はキスをしながら千尋のネルシャツの裾に手を差し入れた。脇腹を撫でていると、手首を掴まれてその手を胸へと動かされる。
「胸も触って……。そう、摘まんで、捏ねて、掌で撫でて……、」
云われた通りに蓮川が触れると千尋はよさそうに喘いだ。女性でなくても胸は感じるところなのだと蓮川は初めて知った。
「ほら。いつまでもそうしているな……。服を脱がして、吸ってくれ……、」
強請る千尋はあまりにも色めいていて、蓮川は震える手で千尋のシャツの釦を外す。釦をひとつひとつ外していくのはもどかしい。千尋は緊張と興奮でうまく外せない蓮川の背を撫でて余裕を醸す。「早くしてくれ……疼いておかしくなりそうなんだ……。」
千尋は言葉ひとつで蓮川を煽る。ようやく一番下の釦を外してシャツを開くと、傷ひとつない白い肌に薄桃色の突起が艶めかしく勃ち上がっていて、蓮川は獣のようにむしゃぶりついた。千尋は声を洩らした。
「あぁ……そう、舌で弾いて、吸って、円を描くように舐めて……あぁ……上手だ……、」
右の胸を吸う間、左の胸は指で弄ってよくしていく。千尋がどれほど感じているのかを知りたくて、蓮川は千尋の股に膝を入れてその反応を確かめる。
「んっ……、」
勃っているのかを知りたくて膝を動かしたのが、意図せず千尋の前を擦り上げる形になった偶然で、千尋が甘い声を上げる。
「……気持ちいいんですか、千尋さん、」
蓮川ははっとした。云われた通りにして気持ちよさそうにする千尋もよいが、云われていないことをして感じられるのは一層堪らなかった。
「胸を触られて、前もされるのが、気持ちいいんですか、」
蓮川の息が上がる。滅茶苦茶に興奮して、膝でぐりぐりと千尋を刺激する。
「莫迦……、あっ……んん、」
蓮川は逃げる千尋の腰を掴んで逃がさない。我慢ができずに千尋のスラックスと下着を一緒に脱がした。
「やらしい……、」
蓮川は眼前に勃ちあがる千尋のそれから睛が離せなかった。薄く血管の透けて見える桃色の先端からは先走りがいやらしいこぼれている。千尋もちゃんと欲情しているのが睛に見えて、蓮川は荒々しくシャツを脱いでベッドの下に投げ捨てる。
「千尋さん、これどうして欲しいですか。」
「……、」
「ちゃんと教えてください……。ぢゃないと、どうしたらいいか俺、解らないです……。」
蓮川は千尋の胸の飾りを指先で玩ぶ。千尋の困った顏にこれ以上ないほど欲情した。もっと困らせて、泣かせてみたい。これ以上は無理だと泣いて請われてみたかった。蓮川はこれまでに感じたことのない暴力的な感情にぞわりとした。
「触って……、」
泪を浮かべた千尋に頭がくらくらとした。すぐに掌で包み込んで擦る。自分で自分を慰めるときのように、上下に擦って刺激を与えていく。
「もう少し、強くてもいい……ああ、そう。徐々に早くして……。ん……そう上手……、」
千尋がうっとりとして呟く。感じて腰を揺らす千尋が艶めかしい。とぷとぷと興奮をこぼす千尋の先端から睛が離せなかった。
「ふっ……あ、上も、上も触って、指で強く擦って……。」
千尋が蓮川の手を取って鈴口にも触るように導く。云われた通りに分泌液のあふれる鈴口を強めに撫でると、千尋の腰が跳ねた。
「千尋さんやらしい……、」
千尋の痴態に蓮川の手は止まらなかった。
「も……、あぁ……。後ろもして……、」
千尋は前を触る蓮川の手を掴むと、自身の精液のついたその人差し指を躊躇いなく口に含んだ。
「ちょっ……千尋さん、」
蓮川は慌てるが、千尋は舌を使って丹念にその指を濡らすと、自身の後ろにその指を持って行く。
「すぐ挿入るようにしてあるから。始めはゆっくり挿入れて……。」
云われるがまま、つぷりと音がして蓮川の指が千尋の中に入っていく。蓮川が指を挿入れると、ゼリーのように柔らかいものがあふれ出る。
「女の子と違って、男はすぐにできないから、こうやって準備するんだよ。」
千尋の中は驚くほど熱く締め付けられる。
「そう……そうやってゆっくり挿入れて、馴染むまでゆっくり出し入れして……。そう……。中で動かせそうなら、少しずつ中を掻き回して……ああ、いい……。馴れてきたら、指を曲げて中を擦って……。あぁ、そう……もうちょっと奥、あ……あぁ……、」
蓮川の指が何かの膨らみを擦ると、千尋が今までにない激しい反応をした。確かめるようにその膨らみを撫でて、擦って、指で潰す。
「あぁ……い……、」
「ここ、気持ちいいんですか……、これが千尋さんの好いところなんですか、」
蓮川が何度も何度もそこを刺激すると、千尋は溺れるように喘いだ。
「いい……、そこ、いいから、早く……早く挿入れて……、」
息を切らして千尋が請う。蓮川は急いでズボンと下着脱ぎ捨てる。なけなしの理性でベッドサイドに置いてあった避妊具の封を切って自身に装着しようとするが、もたついてうまくできない。
「下手くそ。」
溶けきった顏をして待ちかねた千尋が代わりに装着させると、蓮川を押し倒して上に跨がる。
「ほら。よく見てろ。」
千尋はゆっくりと腰を下ろして、固く勃ち上がった蓮川をじわじわと中に納めていく。まるでじっくりと千尋に喰われていくようだった。
「ああ……千尋さん、すごい……熱い、も、出そう……、」
「童貞が。まだ俺は悦くなってないぜ……。ほらしっかり突いて悦くしてくれよ……。」
千尋の中はきゅっと蓮川に食らいついて離れない。締め付けられる圧だけであっという間に限界が近づくが、蓮川に跨がる千尋が艶めかしく腰を動かしてさらに追い詰める。さらに千尋は腰を捻って、自分で自分の悦いところに当てているようだった。その姿態もくらくらするほどいやらしいが、蓮川は自分の手でよくしたいとも思う。
「自分でしなくても、俺がしてあげます。」
蓮川は上に乗る千尋を押し倒して正面から見つめた。
「千尋さんの好いところ、ここでしょう、」
蓮川は千尋の中を掻き回しながら、さきほどの膨らみを探し当てる。
「ここ……この膨らんでいるところ、何なんですか。指でされるのと、どっちがいいんですか。」
蓮川は自覚して意地悪く訊ねる。もっとと云わせたい。気持ちよさでどろどろに蕩かして泣かせたい。蓮川は執拗に膨らみを攻めた。
「ん……そこ、前立腺……。男の、中の好いところ……。あぁ……。やぁ、そこばっかり、だめ……、」
だめと云いながらも千尋は蓮川の腰に足を絡めてもっとと強請る。云っていることとやっていることが真逆でそのいやらしさに頭がおかしくなる。
「あ……莫迦、これ以上大きくしてどうする……、」
「……千尋さんが悪いんぢゃないですか。こんなにいやらしくて、千尋さんが悪いんです……、」
蓮川は激しく腰を振って千尋の中を突いて揺さぶる。その度に千尋の白い喉が晒され、あまりにも旨そうで噛みついてしまいたかった。
「も……千尋さん、俺、イく……、」
「はっ、おまえは俺をイかせてからだよ……。ほらしっかり腰を振れ……、」
千尋は蓮川の手に自身を握らせて、さらに中を突くように云う。蓮川はもうそこまできている絶頂を耐えて、千尋のために尽くした。
「あぁ……いい……イくッ……、」
断末魔にも似た千尋の喘ぎこぼれると、蓮川の手が白濁で汚れる。次の瞬間に蓮川も千尋の中で果てる。絶頂の快楽は頭が白むほど気持ちがよかった。
「初めてにしては上出来ぢゃないか、」
汗で張り付く蓮川の前髪梳くって千尋が云った。中からずるりと蓮川を抜くと、さっぱりとした様子でベッドから下りる。
「今日は外でイったけど、男も中でイけるんだぜ。中でイかせれるようになったら一人前かもな。」
くくっと笑った千尋は、ベッドの下に散らばった衣服を拾って風呂場へ向かう。
「あの、」
蓮川は渾身の声で千尋を呼び止める。このままでは一夜限りの関係で終わってしまうと、さすがの蓮川にも解っていた。
「俺、千尋さんを中でイかせたいです……。ていうか、また千尋さんに逢いたいです。このままここを出たらさよならぢゃ厭です、」
蓮川は自分の青臭くささが厭になるよりも、このまま千尋と切れるかもしれない可能性の方に焦りを感じていた。
「……あのなあ。それは初めて男と寝て気持ちが盛り上がっているだけだぜ。」
解っていたことだが、遊び馴れている風の千尋にあしらわれて蓮川はショックを受ける。だが、だからといって簡単には引き下がれなかった。
「厭です。俺、千尋さんのこともっと知りたいです……。駄目ですか……、」
千尋の表情が読めない。一夜限りの相手に縋られても迷惑なだけなのがありありと解る。蓮川の最初の勢いはすぐにしぼんで、最後の方は消えてしまいそうな声になった。
「……連絡先、」
千尋がぽつりと呟いた。
「え、」
「彰くんの連絡先教えて。気が向いたら連絡するよ。」
「千尋さんのは教えてくれないんですか。」
「おまえなあ。図々しい男はモテないぜ。」
千尋は呆れた顔でベッドサイドに備え付けられていたメモ用紙を蓮川に渡す。
「風呂に入っている間に書いておけよ。」
千尋が風呂場に消えた後、蓮川は下宿の電話番号を丁寧に記した。細い糸がかろうじてつながった気がした。
◇
夏が盛りを迎えていた。路上にも蜃気楼が立ち上る。蓮川が初めて迎えた京都の夏は想像以上に息苦しかった。粘り着くような湿度が、始終まとわりついて躰を重くした。
千尋に連絡先を渡して一ヶ月が経とうとしていた。千尋からは何の音沙汰もない。初めて逢ったあのバーにも何度か足を運んだが、千尋の姿は見当たらなかった。
いつもああして男をあしらっているのだろうか。自分に経験が足りないから、千尋を満足させられなかったのだろうか。栓のない考えばかりが浮かび、蓮川はあの日ベッドの上で見た白い肌に捕らわれたままだった。
蓮川は気分を変えられないまま、睛の前の書棚に並ぶ背表紙を見遣った。英文学のコーナーである。明倫館大学の文学部に所属する蓮川は、英文学を好む。この日も蛸薬師の丸善に足を運んでいた。
『Where Angels Fear to Tread』
蓮川は一冊の本に睛を止める。
「天使が踏むのを恐れる……、」
「邦題では『天使も踏むを恐れるところ』って訳されているな。」
蓮川の背がぞわりと震えた。思わず振り向くと、あの日別れたきりの千尋が立っていた。ネイビーのポロシャツが夏らしくよく似合っている。
「千尋、さん……、」
「こんなところで逢うなんて奇遇にもほどがあるよな。」
蓮川が千尋からの連絡を心待ちにしていたことを知らないはずはないが、千尋は悪びれることなく笑う。
「正直、君がいるから買い物は止めて帰ろうかと思ったんだが、英文学が好きなのか、」
やはり避けられていたのかというショックが半分、それでも声を掛けてくれたという嬉しさが半分で、蓮川はどういう顏をしたらいいのか解らなかった。
「俺も好きだぜ。」
「え……、」
「莫迦。フォースターだよ。イギリス社会の階級差から生まれる価値観の衝突と和解がテーマの作家だな。あと同性愛を主題にした作品もいくつか書いている。」
ここには置いてないなとひとしきり棚を眺めた千尋はつぶやくが、蓮川はそれどころではない。
酷い人だと思う。まるで何もなかったかのような千尋の様子に、焦がれていた蓮川の気持ちは行き場を見失う。「好きだぜ。」というその一言だけが耳に飛び込んで動揺してしまうほどに、蓮川の心は千尋に囚われていた。
「あの……、」
「あのなあ。何でわざわざ声を掛けたと思っているんだよ。ぼやぼやしていたら俺は帰るぜ。」
「あ、え、駄目です。えっと、お茶、お茶しませんか、」
思わぬ千尋の言葉に蓮川は慌てる。何が千尋の気を惹いたのかは解らないが、チャンスは貰えるようだった。急いでレジに向かって本を購入すると、書店近くの喫茶店に場所を移した。
話をしてみると千尋は文学に相当精通しており、蓮川は舌を巻くばかりだった。やがて珈琲カップが空になった頃合いで千尋が席を立つ。話の接ぎ穂を失った蓮川は項垂れた。話せたのは文学のことだけだった。膝の上に乗せた本を強く握って唇を噛む。
「明日の夜九時。」
不意に言葉が投げられる。
「明日の夜九時に、この間のバーに行くつもりだ。」
千尋は意味深に笑うと、さよならもなく、明日のバーに誘うこともなく、千尋は蓮川を置いて先に店を出た。蓮川は呆然としてその後ろ姿を見送る。
「え……、明日バーに行けば逢える……ということか、」
千尋は明確な答えを与えてくれない。約束さえしない逢瀬は、蓮川の意思に任されているようで千尋に支配されている。千尋の本心の見えないこの状況は、弄ばれていると云うこともできる。
「うわあ……嘘だろう……。」
けれど蓮川は掌で顏を覆って降って沸いたチャンスを噛みしめる。喜びと興奮が勝ってすぐには立ち上がれそうになかった。
◇
日射しは翳り、風は肌を冷やしていく。京都盆地を囲む山々が紅く黄色く染まっていく。
蓮川と千尋の交流は不定期ながら細く続いていた。下宿の電話が鳴る度に、蓮川の心臓は大きく脈打って喜びに震えた。
千尋の連絡先は未だ教えて貰えていない。そもそも千尋が何をしている人物なのかも、蓮川は知らなかった。千尋の呼び出しは急なことも頻繁で、平日も休日も関係ないことから、勤め人ではなさそうなことが朧気に察せられるだけだった。
その上、逢瀬が夜に限らないのは蓮川を大いに悩ませた。書店を巡ったり、買い物に付き合ったり、友人のような距離で出掛けることも少なくない。千尋が蓮川のことをどう思っているのか、経験の少ない蓮川には推し量ることはできない。ただひとつはっきりしているのは、蓮川には千尋の誘いを断ることなどできないということだけだった。
「へえ。眺めのいい部屋も原書で読んだのか。」
この日、ふたりは市役所近くのフレンチの店にいた。フレンチと云ってもパリの下町の食堂を思わせるカジュアルな店だ。席はやや窮屈だが、手頃な値段でステーキフリットが提供される。千尋は昼間だが料理に合うワインをオーダーし気持ちよさそうに呑んでいる。
「だいぶ時間はかかったんですが面白かったです。」
千尋に感心されたくて読んだのだとはさすがに云えなかった。
昼食でも食べに行くかと千尋から連絡があったのはこの日の午前中だった。こちらにも予定があると云えないのが悔しい。千尋は蓮川が断れないことを承知で連絡をしてきていることを隠そうともしない。
「彰くんは専攻は何にするのか決めているの。」
千尋の素性は少しも解らないが、蓮川が明倫館の文学部の学生だということは既に話していた。
「ゼミは三回生からですし、まだ全然絞っていないですけど、やっぱり英文学がいいなとは思っています。」
「今のうちに色々読んでおいた方がいいぜ。」
「でも原書は高いので中々購えなくて……。図書館にも読みたいものがないことが多くて、ペーパーバックが出ていれば有り難いんですが。」
蓮川は学生らしい懐事情に溜息をついた。
千尋は蓮川に本を薦めるときが殊の外楽しそうだった。またそのセレクションは的確で蓮川の好みを外さない。その上でその作品の位置づけを明らかにする論文や他作家の作品も教えてくれるので勉強になることばかりだった。
「そうだなあ……、」
千尋が何かを考えるように宙を仰いだ。僅かになったグラスワインを飲み干すと首を傾けて笑う。
「うちに来るか、」
蓮川は驚きでナイフとフォークを取り落としそうになる。グラスワイン一杯で千尋が酔っ払うことなどあり得ない。
「うちに彰くんが好きそうなのがいくつかあるから、貸してあげるよ。」
動揺する蓮川を尻目に、千尋はひとりでそう決めると追加のワインを注文する。蓮川は急にステーキの味が分からなくなった。
◇
昼食を終えると千尋の後についてバスに乗り、北山の方へ向かう。バスの揺れに身を任せながらも、蓮川はこの成り行きに途惑ったままだった。素性は明かさないが自宅を訪ねることは構わないというその案配が、蓮川にはいまひとつ解らない。完全に千尋のペースだった。
深泥池のバス停を下りて住宅の建ち並ぶ路地を少し歩くと、千尋は木造の一軒家の前で足を止めた。表札は出ていない。
「大したもてなしはできないけどな。」
先に玄関に入った千尋が云う。蓮川は遠慮しながら敷居を跨いだ。
「ここが書庫だ。好きなように見てくれて構わない。」
千尋に案内された部屋は四面に本棚が並べられ、棚に収まらない本は床に積まれていた。だがそれも乱雑な様子は無く整っており、家主の気質が見て取れた。背表紙を眺めていくと各作家の全集の原書から、研究書と思われる書籍にも横文字のものが多い。蓮川の知識では何の本なのか解らないものの方が多かった。
「その辺りは論文を置いている。作品ならこっちの方だ。ああ、ちょうどこれはフォースターの死後に発表された作品で『モーリス』だ。もう読んだか、」
千尋は盆に麦茶を淹れたグラスを乗せて部屋に入ってくる。入り口近くの簡易机に盆を置くと、蓮川の肩越しに腕を伸ばして棚から本を引き出した。蓮川の躰は総毛立つ。
「初心だねえ……。」
そう云った千尋は蓮川の耳介を舐めた。耳朶を食んで蓮川の前の際どいところを撫でる。
「あの、千尋さん……、」
「本を見せたいなんて口実に決まっているだろう。解らなかったか、」
千尋の声が甘い。蓮川の理性は容易く焼き切られる。躰を反転させた蓮川は本棚に千尋を押しつけて唇を被せた。千尋に教わったキスの仕方がすっかり身についていた。角度を変えながら唇を食んで千尋の舌先を捉える。音を立てながら充分に愛撫して吸ってやると千尋が気持ちよさそうな吐息を洩らす。
「……こっちにおいで。布団の上でしよう。」
互いの唇から糸が引く。蓮川に抗えるはずもなかった。
千尋に連れられて書庫の向かいの部屋に入る。庭に面する窓からは明るい光が射し込んで背徳的だった。敷かれた布団の淫靡さ思わず睛を背けた。
「彰くん……。」
布団の上に腰を下ろした千尋が蓮川の服の裾を引く。あざとくしなをつくる千尋に、血が沸騰する思いがした。凶暴な気持ちで千尋を押し倒して唇を奪った。千尋の腕が蓮川の首筋に絡んで一層深い口づけになる。
性急に服を脱がし合って、待てない衝動のままに躰をつなげるのもあっという間だった。
「あっ……千尋さん……ん……そんなに締められたら……俺……、」
「もっと……彰くん……もっと奥までして……んぁ……。」
彰くん、彰くんと、千尋は喘ぐたびに中を締め付けてくる。まるで幼い子どものように蓮川の躰に縋ってくるのが愛おしい。
「千尋さん……今日すごい……。すごい感じている……、」
「あぁ……彰くん……。いい……きもちいい……。」
「千尋さん……今日は中でイって……。中でイってみせて……、」
蓮川は千尋の弱いところを執拗に攻める。突かれるよりも、中を抉るように撫でる方が千尋は感じることを既に蓮川は知っていた。千尋のことは何でも知りたい。ひとつずつでも、もっともっと千尋を感じさせたい。
「あぁ……それ以上は……だめ……、イく……。」
爪先を丸めて千尋が感じている。外側では吐精を繰り返していたために千尋のそれは萎えているが、その躰の興奮は高まる一方だった。蓮川は千尋の両足を纏めてさらに奥へ奥へと侵入していく。
「千尋さ……当たってる……奥までしているの、解る、」
「ん……あ、彰く……彰……、あきら、あきら、あきら……、あぁっ……」
狂おしいほどに蓮川の名を呼ぶ千尋に蓮川も絶頂を迎える。中の千尋はまるで蓮川のすべてを搾り取るように強く絡みつく。堪え切れなくなった蓮川が千尋の中に精を吐き出す間も、蕩けたように放心する千尋の顔と細かく震えるその肚の中に、蓮川は千尋が中で達したことを感じた。
一度果てた後も二度、行為を繰り返した。窓の外はすっかり日が落ちて薄暗い。乱して汚したシーツの上で息を整えているうちに、ようやくここが千尋の寝室なのだと気がついた蓮川は、千尋に見咎められない程度に辺りを見回した。
畳敷きの部屋には箪笥と本棚、窓の下には文机が置いてある。書庫と同じく余計なものは散らかっていない。その文机には一輪挿しに挿された黄色い花が薄闇に浮かび上がっていた。
「その花、庭に咲いている花ですか。」
蓮川は寝転んだまま指差した。
「……反魂草っていうんだよ。」
「ハンゴンソウ、」
「葉に入っている切れ込みが深いだろう。その形が手招きしているように見えるというところから、死者の魂を呼び戻す草とも云われているんだよ。」
「へえ。確かに云われてみれば人の手みたいな葉ですね。」
葉は切れ込みの少ない紅葉のような形で、ひとつひとつ咲く小さな黄色い花が、一つの茎からいくつも枝分かれして鞠のように群れをなして咲いている。
「花に願いを仮託するなんて、あの人の一番厭う挿し方なんだけどなあ……、」
千尋の横顔が翳る。そのまま夕闇の中に溶けてしまいそうな、頼りなく淋しげな表情だった。
だから蓮川はそれ以上聞けなかった。一輪挿しの前に置かれた黒い陶器の灰皿のことを。千尋は煙草を喫わないはずだ。その灰皿に灰は溜まっておらず、きれいなままだった。
「風呂に入って来いよ。そこの廊下曲がった先だ。風呂の蛇口は右が湯で左が水だ。蛇口のマークは消えているから気をつけろよ。」
蓮川が触れる前に憂えた表情を消した千尋は、風呂へと促す。蓮川は何も云えないまま風呂場へ向かった。
古い家屋だが洗い場も浴槽もゆったりとした造りになっている。蓮川はシャワーを借りて、情事の痕跡を洗い流した。
◇
それから千尋からの連絡はぱたりと途絶えた。秋が深まり冬を迎えても、蓮川の下宿の電話は千尋からの連絡を知らせない。
蓮川には解らなかった。結果的に最後となったあの逢瀬では、それまで以上に深くつながれたと思ったのは蓮川だけだったのだろうか。鳴らない電話を前に、何度もあの池畔の家を訪ねてみようかとも思ったが、思い切るまでに至っていない。
身動きがとれないまま、この日の蓮川はK大の図書館に本を見に来ていた。以前千尋に勧められた文献を読むためだった。ひとしきり本棚を眺めて、千尋に教えられた以外にも興味が湧いたいくつかの文献のコピーを取って帰る。
図書館で数時間を過ごしたため、くたびれた蓮川はK大の北門前にある喫茶店に入ることにした。珈琲を呑みながらコピーした文献に睛を通したかった。
レトロな看板が掛かった煉瓦造りの店だ。ドアを押すと客の来店を知らせるベルが鳴る。六人掛けの長椅子のテーブルにはぽつりぽつりと客が座り、食事を摂ったり本を読んだりしている学生風の客が多い。
蓮川は窓側の席を取ろうとそちらの方へ睛を遣って驚いた。千尋がいた。頬杖を突いて文庫を読んでいる。
「千尋……さん……、」
蓮川の声は震えた。予期しない再会に、心臓が捻れる。文庫本から顔を上げた千尋が蓮川に睛を止めると眉をしかめた。
「……君か……、」
苦々しい声だった。蓮川はショックを受ける。
「……そんなに厭そうにしなくてもいいぢゃないですか。なんで連絡をくれなかったんですか。」
「君とはそんな関係ぢゃなかっただろう。」
「そんな……。俺、ずっと待っていたんですよ。」
「よしてくれないか。人と待ち合わせをしているんだ。こんなところを見られたくない。」
こんなところ、という云い方に蓮川はかっとする。
「そんな云い方―、」
「千迅。」
蓮川がさらに言い募ろうとしたタイミングと千尋が席を立ったのは同時だった。千尋の視線は店の出入り口に注がれる。つられた蓮川も振り返るとそこには男がひとり立っていた。細縁の眼鏡を掛けた怜悧な顔立ちをしている。グレーのチェスターコートを羽織る立ち姿に隙がない。男は淀みのない足取りで千尋の傍に来るとその耳元に息を吹きかけて囁いた。
「浮気もの。」
まるでこの状況を愉しむかのような口ぶりだった。
「ちょっ、千迅。そんなんぢゃないって。ちょっと待ってくれよ。」
「俺は外で一服してくるぜ。ちゃんと始末はつけろよ。」
蓮川を一瞥した男からは、すれ違いざまに煙草の匂いがした。あの黒い陶器の灰皿が脳裏を過る。
「……誰なんですか、」
「君には関係ないだろう。」
千尋は伝票を掴むとそのまま男の後を追おうとするが、蓮川はその腕を捕まえて千尋の動きを阻む。まだ蓮川の方では話は終わっていない。
「関係ないって、俺の気持ちを知っている癖に―、」
「あのねえ、」
詰め寄る蓮川に心底面倒くさそうな顏をした千尋は、蓮川の手を振り払う。
「俺はね、君の名前が愛おしかっただけなんだよ。」
余白は一切なかった。一言で切って捨てる千尋の酷薄な言葉に蓮川は怯む。その隙に千尋は蓮川の前をするりと抜け出し、支払いを済ませて外に出る。ドアベルが冷たく響いた。蓮川はその後ろ姿を追うこともできず、ただ呆然と立ち尽くした。
◇
春 が訪れていた。青々とした葉桜が、丸くなった春の風に吹かれている。
蓮川は二回生になった。今年度の履修登録を済ませて必修科目の講義に出席していた。千尋とはあの喫茶店での再会以来、何の音沙汰もない。初めて出逢ったバーに行ってみても逢うことはできなかった。まして池畔の家にまで行けるはずもなかった。
最初から最後まで、千尋にとって蓮川は本気の相手ではなかっただけのことだったのだ。だがそう割り切れない程度には蓮川は千尋に夢中になっており、季節が変わっても未だ蓮川を苛んでいた。
講義の開始時刻になり、講師が登壇する。一回生の頃は一般教養の講義がほとんどで、専門的な講義はこれが初めてだった。蓮川は頭を切り替えようと顏を上げて演台の方を見遣る。だが蓮川は瞠目する。登壇した講師がまさかの―。
「この四月に着任した小椋千尋です。専門は十九世紀のイギリのロマン主義時代の詩で、ブレイクやワーズワースを中心にしています。この講義ではイギリス文学の黎明期から現代に至るまでの概要を取り扱い―、」
千尋の話はその後も続いていたが蓮川の耳には入らない。数百人が入る大講義室で千尋が蓮川のことを見つけられるとは思えず、蓮川はどうしたらいいのか解らず顏を覆った。混乱する頭と、痛いぐらいに脈を打つ心臓に翻弄されて講義どころではないことだけは確かだった。
エピローグ
先に喫茶店を出た千迅に追いついた千尋は、その背中を軽く叩く。
「いつから見ていたんだよ。」
「『君とはそんな関係ぢゃなかっただろう。』の辺りだな。」
「……最初からぢゃないか。趣味が悪いぜ。」
「趣味が悪いのはどっちだ。あまり若いヤツをたぶらかしてやるな。」
「これが困ったことに、彼、明倫館の文学部らしいんだよ。」
「……おい大丈夫なのか。」
千迅が驚くのも無理はない。この三月にK大の大学院を修了する千尋の就職先は明倫館大学の文学部なのだ。講師として英文学を教える予定だ。
「それもこれも、秋に千迅が来てくれなかったからだろう。」
「……おまえの男あそびに何の関係があるんだよ。」
「彼岸には京都に来て花を挿してくれると云ったぢゃないか。」
千迅は秋の彼岸頃に、晟を偲んで千尋の池畔の家を訪ねる予定にしていた。だが仕事の都合をつけることができずその約束は果たされていなかった。そもそも晟の命日には千尋と揃って竜安寺を訪ねている。同じ時期にそう休みばかり取れるはずもない。
「都合がつけばと云っただろう。こっちは仕事があるんだよ。そう休んでばかりもいられないだろう。」
「千迅が来てくれないからあの子を誘ったんだ。あの子の名前、なんて云うと思う。」
呆れた千迅は「知るわけがないだろう。」と煙草に火を付ける。興味のなさそうな千迅の気を引きたくなった千尋はわざと露悪的に振る舞う。
「あきらっていうんだぜ。名前が気に入ったんだ。」
「……おまえなあ、」
千迅は顏を歪めて千尋を見る。千迅の気を引くことに成功した千尋は気分がよかった。
「あの子が俺に誘われたがっているのを無視すると、捨てられた仔犬みたいな睛でじっと見てくるのも、まあ悪くなかったんだけどな。名前が気に入って、何度も名前を呼んだけれど、どれだけ呼んでみたって結局晟先生ではないんだよなあ。」
千尋の露悪的な口調は、晟の名を口にするときには鳴りを潜めて、ただ淋しさだけがそこに留まっていた。千迅は小言を云いかけた口を閉じて代わりに烟を吐き出す。春霞の空に茫洋と烟は吸い込まれていった。