シガー・キス

※物語の展開上、千迅さんの実父には壱彦(かずひこ)、養父には栖二(せいじ)、お母さんには葉月という名前をつけています。裏設定として、実父と養父は友人で、壱彦→栖二の関係です。

 

 窓の外では野球部がボールを打つ快音が響いている。西向きの窓にはまだ日射しはさしこまない昼過ぎだった。
 千迅は隣に座る男のことを何年も計りかねている。
「父親が出張ということだったので、偶然こちらを訪ねる用があったものですから。ええ。代わりに出席をさせていただきました。この子の父方の親戚にあたります。」
 立て板に水とはまさにこのことで、男がよく回る口と如才ない笑顔で担任を籠絡するのはあっという間だった。何が父方の親戚だと、千迅は喉元まで出かかった暴言をどうにか押さえつけて呑み込んだ。
「英くんの成績は非常に優秀です。特に数学と物理は抜きん出ていますね。このままならT大の理Ⅲを狙うことも充分可能です。」
「ほう。それほどできましたか。親戚の集まりでもそのようなことはおくびにも出さない子ですから、驚きました。これの父親にもよく伝えておきます。」
「英くんはまだ大学や学部の希望はないようですが、この成績を維持できればどこの大学を選んでも受験には支障ありません。」
「そうですね。理Ⅲなどと云われるとつい周りがその気になってしまいますが、本人にとってよい進路を選ぶことができればそれが一番ですね。」
 子どもの意思を尊重する理解のある大人の振る舞いが板に付いている。実際、男が鎌倉の我が子にはそうしていることを千迅は知っている。特に小学生で姉の嫁ぎ先に家出した次男には鷹揚だ。次男の反抗とも我が儘ともいえる家出を結局は許し、そのまま都内の中高一貫の私立校に通わせている。それは当主であるこの男が許したからに他ならない。 
 千迅は年に数回だけ逢う異母弟を思い出して僅かに和んだ。意中の相手と同居する彼が遠方の進路を選ぶとは思えない。まだ中学生だが、いずれT大を受けるのだろう。
 田舎の公立高校とは云え、千迅の通う高校は近隣トップの進学校だった。進路指導にも熱心で、二年生から三者面談を実施している。とはいえ三年生ほどの切迫感はなく、担任と保護者が成績を確認し、現状での本人の希望を聞く程度で簡単に終わる。ほとんどの生徒が国公立大学や有名私立大学への進学を希望する中で、学年トップの千迅は進路にたいする希望を特段持ち合わせてはいなかった。
「英くんには期待をしています。存分に能力を発揮できる進路を選んでもらいたいですね。」
 最後の言葉は千迅に向けて掛けられる。千迅の進路を純粋に案じているのが半分、理Ⅲの合格者を出したいという思惑が半分。千迅は何も云わず頭を下げて教室を出た。
「おまえ進路はどうする気だ。理Ⅲを受けるならうちの管理する下宿を世話してやってもいい。」
 面談が終わって教室のドアを閉めた途端、男は砕けた口調に変わる。千迅の成績にさも驚いた風を装っていたが、この男が本当に驚いていたはずなどない。千迅の実際の成績を知らずとも「その程度できてもらわなければ困る。」というのがこの男の体だ。その眼鏡に適ったところで千迅には何の感興もない。
「理Ⅲぢゃなければどうするつもりなんだ。」
 血縁上の父親を相手にするとき、千迅は皮肉を隠さない。閑散とした廊下をふたりで並んで歩く。   
 学校から三者面談の日程を知らされる前から、千迅の養父の長期出張は決まっていた。早くに母親が亡くなった英家は、以来ずっと父ひとり子ひとりだった。近くに祖父母などの親戚の類いはなく、養父の栖二は千迅が義務教育を卒業するまでは泊まりがけの出張を断り続けていた。普段の定時退勤も相まって、それが技術者として優秀な父の出世を阻んでいること知っていた千迅は、面談があることさえ父親に伝えてはいなかった。
 そこへ何の気まぐれか、鎌倉から連絡が入る。栖二が出張に出た日の翌日だった。父は出張で不在だと伝えるも「たまにはおまえの顔を見せてみろ。」と訪ねてくる強引さは変わらずで、翌晩には竹雄の英家を訪ねてきた。
「飯を喰わせろ。」
 その突然の訪いに千迅が閉口しているうちに、男は居間に上がり込むと当然のように要求する。ちょうど夕飯を拵えようとしていた千迅は辟易とした。
「……急に来られても大したものはないぜ。」
 追い返す方が面倒だと判断した千迅は、さっさとその奢った口に食事を与えて引き取りを願うことにする。そもそもなぜ急に現れたのかが解らない。
 千迅は、ひとりきりの夕飯は簡単に済ますつもりで素麺を茹でることにしていた。居間のソファに座る壱彦を横切って庭に降りると大葉を摘む。縁側には屋根からネットを張って日除けに朝顔の蔦を這わせている。
「風が潮っぽいな。」
 壱彦がつぶやく。庭先の向こうには海が見える。この土地では新しく買った自転車も半年あれば錆び始める。肌に纏わりつく潮風は日常であり、その言葉は壱彦が余所からやって来たことが際立たせた。
 五枚ほど頃合いのよい大葉を摘んだ千迅は、台所に戻ると洗って水切りに置いておく。素麺の具には錦糸卵、胡瓜、トマト、缶詰のシーチキン、薬味には小口に切ったネギと千切りにした大葉を添える。
 素麺を茹でる前に錦糸卵を作る。フライパンに薄く流し入れた卵を縁まで広げて弱火で焼く。表面が半熟気味になったら、濡らした布巾の上にフライパンを置いて休ませて、卵をひっくり返す。裏面も焼けたらキッチンペーパーの上に卵を載せて冷ます。
 卵を冷ましている間にトマトを串切りに、胡瓜と大葉を千切りにし、シーチキンの油を切る。この間に湯を沸かして素麺を茹でる準備を忘れない。
 ぐらぐらと湯が沸くと塩をひとつまみ入れて素麺を五束茹でる。菜箸で湯がくうちに湯が盛り上がって泡が吹きこぼれそうになるが、差し水をしてなだめる。シンクに置いた大きめのざるに湯ごと素麺を流し込んで冷水で熱を取る。
「そう云えば葉月にも素麺を拵えてもらったことがあったな。」
 いつの間にか千迅の背後には壱彦が立っていた。千迅は何も答えず、冷ましていた卵を三つ折りにして短冊に切っていく。
 千迅の母親である葉月が壱彦に素麺を拵えたことがあるのだとしたら、それはおそらく下町の一軒家で暮らしていたときだろう。千迅を身ごもった葉月を、既に妻子のあった壱彦は東京の下町にある一軒家を手配して住まわせていた。千迅が三歳になるまでの話だ。その頃の千迅は、たまにしか訪れないこの男の来訪を幼心に待ち望んでいた淡い記憶があった。
「……あんた、それ喰ったら帰るんだろうな。」
 千迅は氷を敷いた大皿に素麺を盛り付けると壱彦に渡して食卓まで運ぶよう促す。具材は素麺の上に添えている。千迅は麺つゆを蕎麦猪口に注いで薬味を投入すると、箸と一緒に食卓に運び、壱彦の正面に座った。手を合わせて素麺に箸をつける。
「随分と邪険にするぢゃないか。」
「……そうぢゃない。明日学校がある。」
「夏休みだろう。」
「……補習だ。」
「おまえが補習、」
「学年全員が受けるんだよ。夏休み中も授業が進む。」
 それはまったくの嘘ではなかった。学年全員が受ける補習は面談週間が終わる翌週から始まる予定だった。今週は自宅で自習をするよう課題が出されていた。
「心配するな。宿は駅前の方に取ってある。……それよりも酒はないのか、」
「父さんは下戸だ。」
「……そうだったな。」
 何かを思い出したように壱彦が柔らかく笑んだ。栖二と学生時代を共に過ごしている壱彦には、千迅の知らない養父との思い出がいくつもある。それを思い出すとき、壱彦の人を喰った態度は消え穏やかに微笑む。
「千迅。煙草を買って来てくれ。」
 夕飯の後片付けを済ました千迅に、壱彦は札を渡す。
「釣りは取っておけ。近所に煙草の自動販売機があっただろう。」
「……帰りに買えばいいだろう。」
「今喫いたいんだよ。喫ったら帰ってやる。」
 云い出したら聞かない男だ。千迅は大きく溜息をつくと札を受け取り玄関を出た。
 思うに、この時点で壱彦の思惑は成功したことになるのだろう。千迅が煙草を買って帰ると、いくらもしないうちにタクシーが到着し、煙草を喫いきらないうちに壱彦は帰っていった。去り際の円滑さにもう少し疑いをもつべきだったのだ。
 翌日、千迅がひとりで三者面談に出席しようと登校すると、教室の前に壱彦が立っていた。昨晩のラフなポロシャツ姿とは違い、夏物のスーツ姿だ。躰の線に沿うフォルムはオーダーメイドだろう。この男にしては控えめな黒の生地だが、上品な光沢が質の高さを窺わせた。
「……なんでいるんだよ。」
「三者面談には保護者が必要だろう。ひとりでどうする気だったんだ。」
 壱彦は保護者向けの三者面談のお知らせを手にしてにやりと笑う。千迅は昨日、煙草を購いに行かされたときにやられたのだと悟った。ちょうど前の生徒が教室から出てくる。千迅が止める間もなく壱彦は教室の中へ入り担任への挨拶を始める。千迅は仕方なくその後へ従った。

  ◇

「あんたは自分の子どもの進路だけ心配していればいいんだよ。」
 理Ⅲなら支援するという壱彦に千迅はそう返す。
「生憎と俺には我が子が四人いるんだ。」
 だがそんな皮肉に壱彦が動じるはずもない。
 長い廊下を壱彦と並んで歩くと、各教室の前で面談の順番を待つ保護者と生徒が皆一瞥をくれる。黙って歩いていても壱彦の華やかさは人目を惹いた。千迅は何度目かの溜息をついて仕方なく壱彦の隣を歩く。
「千迅ぢゃないか。」
 ふたりが一階まで降りて昇降口までの廊下を歩いていると、前方からやって来た私服の男が千迅に声を掛ける。
「……黎一……、」
 千迅は苦虫を噛み潰す。その登場は千迅にとって間が悪すぎた。壱彦が余計なことを云わないか気が気ではない。
「卒業生が何で学校に来ているんだよ。」
「進路相談だよ。香坂はK大卒だから話を聞きに。」
「浪人生の暇つぶしか。」
「気分転換と云え。これでもそれなりにプレッシャーがあるんだ。」
 久々に逢った江島との軽口に千迅の顔は自然と綻ぶ。香坂というのは江島が三年だったときの担任だ。
「そういうおまえは三者面談……か、」
 江島は不思議そうに千迅の隣に立つ壱彦を一瞥した。江島家と英家は家族ぐるみの付き合いだ。当然栖二の顔を知る江島は、父親ではない男を同伴している千迅に不思議そうな顔をした。
「……父方の親戚だ。父は出張でその代わりだ。」
「親父さん忙しいんだな。」
「まあそれなりだ。」
 千迅は壱彦が口を開く隙を与えないよう「ぢゃあな。」と話を切り上げて昇降口に向かう。おお、と応えた江島は千迅の背中に向かって言葉を続ける。
「また飯喰いに来いよ。親父もおふくろも待っているから。」
 千迅は背中越しに手を振って答える。その間、珍しく壱彦は無言で成り行きに任せていた。予期しない江島の登場に動揺していた千迅は、そのことには気づいていなかった。
 校門を出た後、千迅は壱彦にどうするのか尋ねる。千迅の日常をかき乱すことに愉しみを見いだしている男だ。もう気は済んでいるはずだというのが千迅の見立てだった。
「浜に降りたいな。」
 だが予想に反して壱彦はまだ千迅を連れ歩くつもりらしかった。鎌倉から来た男が海を珍しがるわけもない。訝しがりながら、千迅は学校の近くの浜に足を向けた。
 瀬戸内の海はいつでも穏やかだ。どこまでも平坦な碧に光が反射して輝いている。
「おまえは理ⅢよりもK大か。」
 浜に降りた壱彦は煙草に火をつける。
「……何の話だよ。」
「好きな男の傍にいたいんぢゃないのか。」
 事もなげに云う。身構えていなかった千迅は何も答えられない。
「堅気の男に惚れるとはおまえも難儀なヤツだな。」
「……勝手に決めるな。」
「そういうところがおまえ、父親似なんだよ。」
 波の音が柔らかい。千迅と壱彦の他に浜には誰もいない。壱彦は旨そうに煙草を喫んだ。
「おまえもやってみろ。」
 前を歩いていた壱彦は千迅に何かを投げる。片手で捕らえた千迅はそれを見て思わず顔を歪める。
「親が未成年に喫煙を勧めてどうする、」
「俺がおまえの年の頃には喫っていたぜ。」
「……制服だ。」
「誰もいないだろう。」
「火がないぜ。」
 壱彦がマッチ箱を投げて寄越すが、ちょうど風が吹き付けてマッチで火をつけるどころではない。見かねた壱彦が手招きをする。
「咥えてこっちに来てみろ。」
 千迅は掌にある濃紺の小箱から一本を取り出し、渋々壱彦の横に並ぶと肩に腕を回され抱き寄せられる。千迅が突然のことに唖然とするうちに、壱彦の咥える煙草と千迅の咥える煙草の先端が触れ合って火が移る。
「……子どもにすることぢゃないだろう、」
「余所の男のようなものだろうおまえは。
 壱彦は喉を鳴らして笑う。二本の烟は風に吹かれると絡み合って空に向かって伸びていった。