緩くそよぐ風に夏の名残を感じる昼休みだった。千迅がキャンパスのベンチに腰かけてぼんやりと煙草を喫っていると、白衣を着た江島が校舎から出てくるのが見えた。同級生らしい千迅の知らない三人の男女と何やら喋りながら歩いている。千迅より一学年上の江島は生理学実習や解剖実習が本格化しているため、白衣姿でキャンパス内にいることが多かった。
烟を吐き出しながら久々に見る江島の姿を睛で追っていると、不意に千迅の方を向いた江島と睛が合った。江島が友人達に何事か断りを入れると千迅の方へ歩いてくる。千迅は煙草を口から離すと江島の方に手を挙げて見せた。
「よう千迅。久しぶりぢゃないか。」
「しばらく見ないうちに白衣が板についてるぢゃないか。すっかり若先生だな。」
「おい、思ってもないことを云うんぢゃないぜ。」
江島は口の端を曲げて千迅の隣に腰を下ろした。そのまま白衣のポケットを探って煙草を取り出すと火を点ける。
「くたびれた……、」
烟を胸いっぱいに喫った江島は煙草を片手に持ったまま天を仰ぐ。雲一つない快晴だった。
「解剖実習か。」
千迅は江島から漂ってくるホルマリンの匂いから見当をつける。
「ああ。昼休みが終わったらまた続きだよ。今日で五日目だ。さすがに疲れてきたぜ。腰もつらいしな。」
解剖実習はおよそ二週間に渡って分野ごとに人体の解剖を行っていく実習科目だ。献体として提供された遺体を実際に切り開いていくことで、それまでに座学で学んだ知識と照らし合わせて、人体の構造を立体的に理解していくことが目的となる。
「血が苦手な若先生にはそっちの方が堪えるんぢゃないのか、」
「初日が一番堪えたな……。おまえも覚悟しておいた方がいいぜ。」
千迅の軽口に力なく答えた江島は、空に向かって烟を吐き出すと軽く目を瞑ってベンチに躰を預ける。千迅は何も云わず、傍らで喫いかけの煙草に口を付けた。
「おまえ、好きなひととかいないのか、」
「……なんだよ、藪から棒に、」
思いがけない江島の質問に千迅の反応は一瞬遅れる。怪訝な顔で江島の方を見るが、変わらず睛を瞑ったままでいるのでその表情から発言の意図を探ることは難しかった。気怠げな調子のまま、江島は話を続ける。
「解剖実習ってさ、毎日半日以上するわけで、段々とご遺体にも慣れてくるし時間も長いから他愛もない話をしながら進めるんだよ。俺は今まであまり親しくなかったヤツと同じグループになったから、どこの出身だとか、昨日何食べたとか、まあそういうありふれた話題のひとつに恋愛の話題っていうのもあってな。そういえばおまえとそんな話をしたことはなかったなと思ったんだよ。」
そこまで云うと江島は弛緩させていた躰を起こして千迅の顔を覗き込む。
「おまえ高校のときからわりあい女子に人気だっただろう。でも浮いた噂を聞いたことがないなって、」
「実習中に人の恋愛事情を気にできるとは随分余裕なことだな。」
千迅は呆れた顔で手にした煙草を喫うと、口に含んだ烟を江島の顔に吹きかける。
「来年一緒に解剖実習をやることになったら、そのときに教えてやるよ。」
「おい何するんだよ。来年一緒にって俺が留年するってことかよ。おまえ覚えておけよ。」
千迅は意地悪く口角を上げて笑ってみせると、立ち上がって疲労困憊の江島を食堂に誘った。