口説き文句

 カウンター席は十席ほど、テーブル席は四人掛けが二席の小さなバーだった。千尋はカウンターの右端の席でロックグラスを傾けていた。
「座るなら他の席にしてくれないか。連れが来るんだ。」
 空いている隣の席に座ろうとした男に、千尋はそう声を掛けた。
「……それは悪かったな。」
 男は千尋から二席離れたイスに腰を下ろすとギムレットを注文する。千尋はグラスの残りを一気に呷った。
「随分と荒れているな。」
 煙草に火を付けた男が千尋に話し掛ける。
「ナンパならお断りだ。」
「そう邪険にするな。どれだけ呑んだんだ。あまりいい呑み方ぢゃないな。」
「あんたには関係ないだろう。」
「隣で呷るように呑まれたら気になるだろう。どうしたんだ。話してみろよ。」
「……約束から二時間も経っているのに来やしないんだ。そもそも最近は仕事だなんだと逢う約束を反故にされてばかりだったから、その穴埋めを今晩するっていう話だったのに、今日まで遅れてくるんだぜ。信じられない。」
「それはまた碌でもないヤツと付き合っているんだな。」
「こんなに薄情なヤツだとは思わなかったんだ。」
「長い付き合いなのか。」
「子どもの頃からだから、十年以上だ。」
「へえ。妬けるな。」
 男の声のトーンが変わったことに気づいた千尋がふとそちらの方へ睛を遣ると、頬杖をして真っ直ぐに千尋を見つめる男と睛が合う。その睛は熱を帯びていた。
 千尋は反射的に睛を逸らした。男の視線の熱に当てられて、心臓は強く脈打ち頬は上気する。動揺を誤魔化すために千尋は新しく出されたロックグラスに手を伸ばすが、すぐに腕を掴まれる。二席隣に座っていたはずの男が、いつの間にか席を詰めて千尋のすぐ隣に座っていた。
「……離せよ。」
「やめておけ。」
「俺がどれだけ酒を呑もうと関係ないだろう。」
「そんな男、やめておけ。」
「……男だなんて、云ってない……、」
「男だろう。」
 千尋の手首を掴む力がじわりと増す。千尋の心の揺らぎを見透かすように男は不敵に笑む。
「あんたのことを放っておいたその男が悪いんだ。」
「……解ったようなことを云うな、」
「解るさ。約束を破られて、無茶な呑み方をするぐらいにはその男に惚れているんだろう。」
 図星を突かれた千尋は顔を一層紅く染める。
「でももういいんぢゃないか。振り回すだけの男よりも、あんたのことを大事にしてくれる男の方が、あんたには似合いだぜ。」
「……それがあんただって云うのか。」
 掴まれた腕をどうすることもできないまま千尋は小さく問いかける。
「こんなに可愛い男、俺は放っておいたりしない。」
―だから。それまで千尋の睛を見て話していた男が不意に睛を伏せると、千尋の耳元に唇を寄せて囁きかける。
「試しに俺のものになってみろよ。」
 耳が熱い。腰の奥がぞわりと痺れた。千尋は掴まれていた手首を自分の躰の方に引いて、手首ごと男の躰を引き寄せる。
「千迅の莫迦……。」
「なんだ。もうお仕舞いでいいのか。」
 先ほどまで見知らぬ男の振る舞いをしていた千迅が破顔する。
「悪かったな。遅れて。」
「次やったら本当に知らないからな。」
「肝に銘じておくよ。何せたった今、知らない男におまえのことを攫われかけたからな。」
 心底おかしそうに笑う千迅は新しい煙草に火を付ける。千尋の手首の拘束はいつの間にか解かれている。千尋は千迅に見えないようにそっとそこを撫でた。いつにもなく真っ直ぐに求められて、その熱は冷めないどころかさらに熱さを増していた。先ほどのことなどすっかり忘れたように紫煙を燻らせる千迅の耳元に、千尋は唇を寄せて吐息を吐く。
「早く、あんたのものにしてよ。」
 もう待ちきれなかった。躰の中に押しとどめられる熱と欲望を、この碌でもない男に暴かれて、止めどなく満たされたかった。
「……いいぜ。いやというほど可愛がってやる。」
 一瞬虚を突かれた顔した千迅だったが、喫い始めたばかりの煙草を灰皿に押しつけると、カウンターの下で千尋の指を撫でた。
 知っている千迅の顔でも、知らない男の顏でも、結局この男に心が奪われるのだと、千尋は千迅の指を捕まえて指を絡めた。