トワイライト

※凜一さんと千迅さんが初対面のワンナイトパロです 

 

 その日、凜一は華展のために京都にいた。老舗デパートのギャラリーで行われるこの華展は天海地流が主催する華展の中でもとりわけ格が高く、例年ならば家元が来京して大作を挿け込み、華展そのものも直々に取り仕切ることが慣例だった。
 しかし、年齢による体力の低下と次期家元である凜一の成長に伴い、京都での華展の運営は年単位で凜一に委譲され、この年に初めて凜一が単独で采配を振るうことになった。勿論、単独というのは家元が帯同しないという意味であり、古参の門下生や京都支部の教授達が、若き次期家元を支えるため手厚く配置されていた。
 華展の会期は搬入と搬出が込みを合わせて五日間の日程だ。午前中に京都に到着した凜一は、昼過ぎから花を挿け込み、会場の設営や初日の段取りなどを整えて、百貨店を出ることができたのは夜の十時を過ぎる頃だった。
 身体的な疲労とは裏腹に、開催の準備が整ったことで軽い興奮状態にあった凜一は、真っすぐにホテルに戻る気持ちにはなれず、夜の京都をあてもなく彷徨っていた。
 夜風に当たりながら、華展会場であるデパートが建つ四条通りを東に入って賀茂川に向かって歩く。夏の終わりと秋の始まりの狭間のような季節だった。時折吹き抜ける風は生ぬるいが、夜気と交ざり合って思いのほか肌に心地よかった。
 賀茂川の手前まで来ると、喧騒に心惹かれて木屋町通りに進む。高瀬川の湖面には明るい外灯が映り込む。川面が暗く見通しにくい賀茂川よりも、飲食店が連なり人々の喧騒に包まれた木屋町通りの方が、昂った気持ちを持て余す今の凜一の気分には合っていた。
 いくらか木屋町通りを散策していると、路地に構える老舗らしい店構えの店舗が凜一の睛を惹いた。壁には蔦が這い、磨り硝子の窓からは中の様子は伺えない。ドアに吊るされた看板から店はバーであることがわかる。重そうな木製のドアは一見の客を断るようにも思われた。
 ここが今東京で、平生の仕事を終えただけの凜一なら、例えこのバーが睛に入っても趣に二の足を踏んで店内に入ろうとは思わなかったかもしれない。しかしこの日の凜一は客地にあり、その上軽い興奮状態にあった。気後れよりも興味が勝り、そっとドアを押した。
 ドアの揺れに呼応してベルが上品な音を立てる。店内に足を踏み入れると、濃密な夜の空気に包まれる。
 店内は薄暗く、木屋町の明るいネオンに慣れた睛はすぐに順応できない。カウンターとテーブルには蝋燭が灯り、炎がゆらゆらと揺れていた。席数はカウンターに十席ほどと、四人掛けのテーブル席が二つだけとこじんまりとしている。騒ぐ客はおらず、客同士の囁き声を縫ってシェイカーの振られる音が時折響く。いいい雰囲気の店だった。
 凜一は空いていたカウンター席に座り、まずはジントニックを注文する。ジントニックを作る腕前でその店の実力がわかると凜一に教えたのは従兄の暁方だった。凜一を初めてバーに連れて行ってくれた人でもある。
 歳が五つの離れたこの従兄は、普段から温厚で賢く、既に両親が亡い凜一のことを、何かと気に掛けてくれる気遣いの人だった。次期家元となるはずだった父親が早逝したことで、家元修業が早まった従弟の心理的な負担を和らげようと、ほんの少しの悪さに誘ってくれる柔軟性のある人で、そのひとつがバーだった。
 凜一が酒を呑める体質だとわかると、凜一が大学に合格した祝いに、暁方は凜一をバーに連れ出してその愉しみ方を教えた。それは気の抜けない毎日を過ごす凜一が、これから先、一時でも息がつける場所があることを教える意味合いも強かったのではないかと、二十六歳になった凜一は感じていた。事実、心がささくれたときややるせないときにバーは凜一の隠れ家となって、波立つ気持ちが凪ぐまでの時間を過ごす場所となった。
 凜一のオーダーに頷いたのは初老のバーテンダーだ。彼の他にカウンターの中にバーテンダーはいない。バーテンダーは足元の冷凍庫からグラスに氷を入れると、そのままジンの瓶を取り出した。それをメジャーカップは使わず目分量でグラスに注いでいく。次いでトニックウォーターを取り出すと、グラスを少し傾けてゆっくりと氷の間を滑らせる。飲み口付近まで注ぐとバースプーンでステアは一回。それをグラスから引き抜く前に、グラスの底から氷を一度持ち上げて、底に溜まったジンの香りを逃がすことも忘れない。すべての手捌きに淀みがなく、気が付くとライムの添えられたジントニックが凜一の前に差し出されていた。老練のバーテンダーに小さく感嘆の息を吐いて、凜一はグラスに口をつける。
「おいしい……。」
 思わずこぼれ出た独り言だった。ジンの香りがグラスに満遍なく広がり、味わいに深みが生まれていた。 上等なカクテルを口にしながら揺らめく炎を眺めているうちに、凜一は冴えた神経が少しずつ穏やかに凪いでいくのを感じていた。
「ギムレットを、」
 不意に凜一の耳に心地よい男性の声が響いた。その声は、凜一の座る席から空席をひとつ挟んだ隣の席に座る男から発せられていた。凜一は思わずそちらの方へ睛を遣る。暗闇が凜一のことをほんの少し大胆にしていた。
 その男は光沢感のあるブラックスーツに白のネクタイという極めてフォーマルな装いをしていた。足元には老舗ホテルの大きな紙袋があることから結婚式の帰りであることが伺えた。カウンターの上には疲労からか外された銀縁の眼鏡が置かれていた。オールバックに上げられた前髪の一束が額に落ちかけるのを掬い上げる手が色っぽく映った。
「なにか、」
 ぼんやりと男に見惚れていた凜一は、それが無遠慮な視線になっていることに気付かされて慌てて睛を逸らした。
「すみません不躾に……、」
 声に惹かれて。手が色っぽくて。そんな理由を告げるわけにもいかず、凜一は謝ることしかできない。酔っている自覚はなかったが、自身で思っている以上にアルコールが回っているのかもしれないと恥じ入った。
「おかしなやつだな。」
 男は気を悪くした様子もなく、喉の奥を鳴らして笑った。
「ひとりなのか。」
「はい。あの、出張中で。」
 凜一は頬が熱を帯びるのを誤魔化すために、握り込んだグラスを急いで呷る。
「ぢゃあこの店は初めてなのか。」
「はい。店構えに惹かれて入ってみたんですが、このジントニックがとてもおいしくて驚いています。」
「当たりくじを引いたな。この店のジントニックは京都のバー中でも三指に入るぜ。」
 そう云う男の前にはギムレットが出される。カクテルグラスはほんのりとした白色に満たされていた。男はその細い足を、色気のある手が掴んで口元まで運ぶ。グラスの縁に触れる唇にも、カクテルを嚥下する喉元にも、男の身動きの何もかもに凜一の睛は奪われる。それ以上の言葉は紡げずに、凜一もジントニックに口を付ける。自然と訪れる沈黙も心地よかった。
「あんた、次は何を飲むか決めているのか、」
 凜一がジントニックを飲み干したとき、男が声を掛けた。男ののギムレットも残り一口ほどだった。
「いえ……。ジントニックがとてもおいしかったので、ジンベースでもう少し強めのカクテルを頂こうとかと。」
「そうか。俺はウィスキーを吞みに来たんだ。」
 そう云って男はバックバーを一瞥する。左からリキュール、バーボン、アイリッシュと種類ごとにボトルが並べられ、店の顔ともいうべき中央の棚にはモルトウィスキーが並んでいる。男がウィスキーを吞みに来たというだけあってその数は充実している。オーナーのこだわりを感じさせる棚だった。棚を吟味した男はバーテンダーに睛で合図を送る。
「ポートシャーロットの十年をストレートで、こっちにボダニストでマティーニを。」
 バーテンダーは軽く頷くと、男の指定した銘柄のボトルに手を伸ばす。深緑色の瓶に貼られた黒のラベルには、十年ものを表す数字が黄色で刻印されていた。
「スコッチウィスキーのシングルモルトだ。マスターがスコッチウィスキーの愛好者で、ここに来ないと呑めないようなボトルも隠し持ってるんだぜ。」
 男が親しげな口調で云うと、バーテンダーが軽く会釈して応える。彼がこの店のマスターらしい。マスターは深緑色の丸い瓶を掴むと琥珀色の液体をグラスに注ぎこむ。モルトのスモーキーな匂いがふんわりと漂った。バカラのグラスで男の前に出される。
 凜一が男が通した注文の詳細がわからず首を傾げていると、何も語らない男に代わってマスターが口を開いた。
「今からお客様にお作りするマティーニは、こちらのお客様にご指定いただいたザ・ボタニストというドライジンを使ってお作りします。このドライジンは、今お出ししたスコッチウィスキーと同じ蒸留所が作っています。そのまま吞んでもおいしいんですが、まろやかでどっしりとした味わいのマティーニをお楽しみいただけますよ。」
 マスターは「THE BOTANIST」とラベルされた透明なボトルを手に取ると、ドライベルモットを入れたミキシンググラスに注いでステアする。ジントニックを作ったときの手捌きと同様に惚れ惚れとする手際だ。ステアされたマティーニはカクテルグラスに注がれると、オリーブの葉で飾られて凜一の前に出される。
「うまいぜ。」
 男は言葉少なく口の端を緩めて笑う。その表情に、凜一の心臓は音を立てて跳ねた。
 凜一が東京でひとりバーカウンターに座っていると、男女を問わず見知らぬ相手から奢られることは珍しいことではなかった。凜一と話がしたいという軽い興味でも、より直截的な欲望のサインであっても、大概の場合一杯だけ付き合い後は当たり障りなくあしらうのが凜一の常であった。
 しかしこの日はいつもと勝手が違った。凜一の方が急速に男に惹きつけられて鼓動が忙しない。躰の熱が上がっているのはアルコールのせいだけではなかった。気もそぞろになる凜一を余所に、男は出されたグラスに手を掛ける。
「夜も遅くまで働く勤労者に。」
 凜一もそれに応えてグラスを傾ける。
「京都の夜に。」
 乾杯、と声だけを重ねてその場でグラスを傾け合った。ほんの少し、ふたりの距離が近くなる。
「ああ。この花の匂い……、あんただったのか。」
 男が不意に、グラスに口を付けようとした凜一の首筋に顔を近付ける。男の髪が、肌に触れた気がした。
「あ、あの……、」
「ああ。悪いな。ずっと仄かに花の香りがしているような気がしていたんだが、あんたに付いている匂いだったんだな。」
 納得した様子の男は、何事もなかったかのようにウィスキーのグラスに口を付ける。凜一の目の前で琥珀色の液体が緩やかに波を打った。凜一の耳元では強い拍動が鳴っていた。
 「……多分、仕事で付いたんだと思います。」
 凜一はどうにかそれだけを答える。生業が華道であることは特殊性の高い話で、それ以上の説明は省くに留める。この日の凜一は半日以上花に囲まれ挿け込んでいた。中でも実質的な家元作品として凜一が挿け込んだのは、大振りの松と桐に百合をあしらった畳三畳分にも匹敵する大作だった。花の匂いが移っても不思議はなかった。
「百合の匂い……か。あえかなことだな。」
 触れられてもいない首筋が熱い。動揺を隠すためにマティーニに口を付けるが、味はよくわからなかった。男はスーツの内ポケットに手を差し入れると、赤い煙草の箱を取り出す。
「煙草を喫っても、」
 カウンターの角で箱の底を叩いてフィルター部分が開け口から覗かせる。コルク柄のフィルターが頭を出していた。
「あの、すみません……。気管支が弱くて……。」
 成人した凜一は幼少期に比べれば寝込む日も少なくなったが、気管支の弱さや煙草に対するアレルギイの体質を変わらずに持っていた。
「ああ。それは悪かったな。」
 男はすぐに頷いて煙草を内ポケットに仕舞う。男性社会では酒と煙草を嗜めて一人前という風潮が色濃い。煙草を喫えない凜一は、それだけでその輪の中での序列を低く見積もられる。中には煙草の誘い固辞する凜一に強要する年配者もいるのだが、男はそのどちらでもなく、ただ凜一の応答を受け入れて尊重した。そのような男に初めて出逢った。
「あんた、それぐらいにしていい加減宿に帰れよ。あまり無防備にいい匂いをさせていると、悪い虫を寄せ付けることになるぜ。」
 凜一が男の振る舞いに心地よさを感じている間に、男のグラスは空になっていた。男はマスターにチェックを、と伝える。もう暫くは男の傍らで過ごせると思っていた凜一は、急な状況の変化に動揺して言葉が出なかった。
「煙草が喫えないと、口淋しいんだ。」
 マスターが精算するために背を向けた瞬間、男は躰を寄せて凜一の耳元でそう囁いた。カウンター下の手元が不意に撫でられる。凜一の肌は粟立って息を忘れた。
「ぢゃあな。あんたと話せて楽しかったぜ。」 
 男は凜一にそう告げると、足元の紙袋を提げて店を出る。ドアのベルの音で我に返った凜一は慌ててマスターに声を掛ける。
「あの、僕もチェックを、」
 吞みかけのマティーニを一気に飲み干して凜一はマスターに声を掛ける。
「さきほどのお客様からお代は頂いております。」
 グラスを磨くマスターは穏やかな声で答えた。一分一秒が惜しまれる。凜一は上着と鞄を掴むと店の外へ飛び出した。あの男がどちらへ向かったかは賭けだったが、凜一は勘で四条通りの方へ走ってその姿を探した。夜の十二時を前にしても人通り途切れることなく、凜一は行き交う人々の間を縫って走る。息が切れる。誰かを探して夜の街を走るなど、これまでの凜一では考えられないことだった。ぬるかったはずの風が、肌をちりちりと灼いていった。やがて四条大橋の袂が見える。そこに煙草を燻らせてタクシーを止める男の姿があった。
「あの……、」
 雑踏の中から男を呼び止めようと声を張り上げる。呼ぶべき名前さえ知らない男だった。通りすがりの幾人かが怪訝な顔で凜一の方へ振り返るが、構っている余裕はない。
 タクシーに乗り込もうと背を向けていた男が振り返り、真っすぐに凜一を見つめた。
「乗れ。」
 騒めきの中でもその一言は凜一の耳にはっきりと届いた。凜一は駆け出すと迷うことなく車内に乗り込んだ。明日の華展も、男の素性への警戒も、何もかも放り出した衝動的な行動だった。

  ◇

 タクシーは四条通りを抜けて五条の方へ向かう。煌びやかな雑踏は徐々に遠のき、しっとりした仄暗い夜の街を走る。衝動的にタクシーに同乗した凜一だったが、車が動き出しても男はまるで凜一がいないかのように足を組んだままぼんやりと窓の外を眺めていた。
 凜一は声を掛けることもできず、段々と衝動的な行動に後悔と不安を感じ始めていた。男にとっても迷惑だったのかもしれない。京都駅の方へ向かうなら、途中下車をしても凜一が宿泊する予定のホテルに帰ることができる。
「あの……、」
 考えを巡らせた凜一が意を決して口を開きかけるが、凜一が言葉を紡ぐより早く男の指が凜一の指に絡まった。冷たい手だったが抱きこむように凜一の手の甲を覆って指の間を撫でる。爪で軽く引掻かれると甘やかな痛みに息を飲んだ。凜一はもうタクシーがどこを走っているのか気にする余裕もなかった。
 やがてタクシーは京都近くの老舗ホテルのロータリーに横付けされる。人気のない深夜のフロントで手続きをする男の背中を、凜一は突かず離れずの距離で見つめていた。期待していた。
 ルームキーを受け取った男の後についてエレベーターに乗る。その階数表示は数を大きくしていくが、一向には止まらない。小さな箱にふたりだけであっても男は口を開くこともなく、壁にもたれて階数表示を眺めていた。
 上層階でようやくエレベーターが止まる。フロアに降りると、圧倒的に部屋数が少ない。ハイグレードのフロアに凜一が呆気に取られていると、部屋のドアを開けた男が凜一の腕を掴んで室内に引き込んだ。
 視界には暗闇が広がる。ドアが閉まると同時に抱き寄せられて、口づけをされた。先ほどまでの無関心が嘘のように、触れているところすべてが熱い。腰を抱かれて、耳に触れられて、舌先は絡め取られて唾液が交ざり合う。背をしならせた凜一は受け止めることで背一杯だった。
「ゃぁ……、待って……、」
 躰は男のことを強く求めていたが、意識が追いついていなかった。凜一は思わず重ねた両手で男の口を塞ぐ。凜一の小さな抵抗に男は喉の奥を鳴らした。厭な感じはしなかった。熱に煽られるようだった。男は抵抗する凜一の手を掴むとそのまま掌に口づけて、見せつけるように舌を這わせる。冷たい手と熱いその舌先に翻弄される。
「待たない。」
 暗闇に慣れた睛が見たのは、そう云って色を含んだ男の睛だった。射抜かれた凜一は危険だとシグナルを発する理性を手放す。凜一は導かれるまま白いシーツの海に溺れた。

  ◇

 カーテンの隙間から薄い光が差し込んで凜一は睛を覚ます。張りのあるシーツの感触が目覚めたばかりの凜一に非日常を教えた。ひとりで横たわるには広すぎるベッドだった。凜一の隣に男はいなかった。
 開いた薄目を閉じて男がいたはずの場所にそっと手を伸ばしてみるが、すでにそこは冷たい。昨晩あんなに熱かった掌も今は冷えきっている。凜一は枕に顔を埋めた。
 凜一の躰は満たされた一方で、満たされていなかった。男は最後の一線を越えなかったのだ。凜一がどれほど乱れて強請っても、何も準備がないと云って、凜一が一番求めていた場所には触れることさえしなかった。足りなかった。躰への痕さえ付けてはくれず、あの男と一晩過ごしたのは夢だったのではないかと思うほど、現実感が希薄だった。
 ベッドサイドの時計に睛を遣ると時刻は五時半だった。すぐに凜一の取っているホテルに戻って支度をすれば、華展の開催には間に合う。凜一は気怠い躰をベッドから引き剥がし、シャワーを浴びるために起き上がった。一糸纏わぬ姿で、足裏に柔らかな絨毯の感触を感じながらバスルームに向かう。
 応接コーナーを横切ろうとしたとき、その机上に室内に備え付けのメモ帳が置いてあるのが視界の端に入る。メッセージが書かれていた。
『先に出る。チェックアウトは済ませてある。都合のいい時間まで好きに過ごせ』
 流麗な字で書かれたメッセ―ジは素っ気なく、名前さえない。けれど昨夜の出来事が夢ではなかったことを教えた。凜一はそのメッセージに思わず口づける。もう一度逢いたいと、思った。

  ◇

 華展の初日は盛況だった。招待客も多く、新聞や雑誌の取材も複数件あった。凜一は流派の顔としてそれらの対応を一手に引き受ける。凜一の花に対する流派の幹部の評価は、彼が十代の頃から一貫して「新味があるだけ」「感情の発露が足りない」と認めようとしない一方で、メディアが宗家の若き跡継ぎとしての凜一を取り沙汰すのを見逃さず、華展の話題性を高める材料として積極的に重用するのが常だった。
 特に初日は凜一が亭主となり、招待客に茶を振舞うことになっていた。茶会の席を設けることは、どの流派の華展においても珍しいことではない。しかし凜一が茶席を持つとなると希望者は平生の倍近くになることも珍しくなく、客寄せに凜一が利用されることは日常茶飯事だった。
 それでもこの十年、弛まず続けてきたせいか若い門下生を中心に凜一の花を慕う者も少なからず増えていた。焦ることなく、失点を重ねず、我慢をしながら歩を進めたことで、少しずつではあるが凜一も手応えを得ていた。任された仕事をまっとうすることでしか登れない階段があることを凜一は自覚していた。
 華展の初日は盛況のまま十九時に閉場した。その後は、そのまま先斗町の料亭で有力な支援者との会食が控えていた。その会食も九時半過ぎには引き上げて、凜一はどうにかホテルに戻ってくると、着物のままベッドに横になる。華展の一日一日が勝負であり、一瞬たりとも気が抜けないことは承知のことだった。しかしそれでもなお、凜一の頭の片隅は一日中あの男に占められていた。
 凜一はベッドに寝転んだままサイドテーブルに手を伸ばし、持ち帰ったメモを眺める。昨晩の情事が思い出されて、凜一の躰には云いようのない情動が這い寄った。
 凜一は起き上がると羽織を脱ぎ、帯を解く。持参した着物用のハンガーに脱いだそれらを吊るすと、シャツとスラックスに着替え、靴に履き替えた。
 凜一は四条のビジネスホテルに宿を取っていた。昨晩の木屋町のバーまでは徒歩で向かうことができる。バーに着くのは昨晩と同じ頃合いになりそうだった。
 凜一は逸る気持ちを抑えて四条通を東に向かって歩き出す。あの男がいるのか、いないのか。期待と不安がない交ぜになって、凜一の鼓動の速さが増していく。
 凜一が一夜の関係を持つことはこれが初めてではない。だからと云って慣れているわけでもなかった。一晩限りの関係を一晩で終わらせたくなくて衝動のままに行動することは、これが初めてのことだった。
 木屋町通りを辿って昨晩の路地まで来ると店に明かりが灯っているのが見える。凜一は安堵してそっとドアを押した。
 バーは十一時を迎えようとしても夜はこれからだと云わんばかりに客が入っており、昨晩同様に心地のよい騒めきで満ちていた。カウンター席に睛を向けた瞬間、凜一の心臓は大きく音を立てた。
「あ、あの……、」
「……あんたも懲りないな。」
 あの男がいた。男はこの日もウィスキーを片手に紫煙を燻らせていた。煙草の匂いとその耳に心地のよい低音は容易く昨晩の情事を思い出させ、凜一は男の顔を直視できなかった。
「名前を、聞いていなかったから……、」
 凜一は辛うじてそれだけを呟いた。隣に座っていいかと尋ねると、男はおかしそうに笑って椅子を引いた。凜一はジントニックを注文する。
 男は昨日のフォーマルな装いとは異なり、薄いグレーのオックスフォードシャツにネイビーのチノパンというカジュアルな格好だ。凜一が隣に座ると喫いかけの煙草を灰皿に押し付けて火を消す。
「千尋だ。」
 男は凜一の質問に名字は明かさず名前だけで答えた。
「千尋……さん、」
 凜一は出されたジントニックを眺めながら、その名前を口の中で転がしてみる。なんとも云えない満足感があった。
「そういうおまえは、」
 問い返されて凜一の頬は熱くなった。
「凜……です。」
 男に合わせて名字は名乗らない。かと言って本名をそのまま名乗ることも躊躇われ、幼少からの愛称を告げる。
「いつまで京都にいるんだ、」
「日曜日までです。」
「長丁場だな。」
 核心に触れない些細な会話にも凜一の心は躍る。千尋は凜一を待っていてくれたのだろうか。期待する心を抑えることはできなかった。駆け引きなど、もう思い浮かばなかった。
「今日はずっと、千尋さんのことを考えていました……。」
 凜一はカウンターの下でそっと千尋の指を撫でた。自ら誘いを掛けることなどしたことがなく、やり方など知らなかった。男を真似て精一杯の欲望を伝える。ただ、欲しいと思っていた。
「……莫迦だな、あんた。」
 千尋は一呆れたような顔をした後、たどたどしく触れる指に自らの指を絡めて凜一の耳に囁く。
「昨日のように上品なところには連れて行ってやれないぜ、」
 凜一はその言葉の含む意味を理解して躰の奥が熱くなった。ふたりはグラスが空になると席を立ち店を出た。

  ◇

 店を出ると、千尋は四条通りを東へ、八坂神社の方へ足を向ける。凜一はその一歩後ろをついて歩いた。昨晩に劣らず人通りが多く、千尋を見失わないようにその背中に注意を向ける。
 千尋は不思議な男だった。京都の街を迷いなく歩く癖にその言葉はまるっきりの東ことばで、京都に居を構えているようには思われない。昨晩は結婚式の引き出物手にしていたことから、式に列席するために他県から訪れているのではと考えてみるが、昨晩のホテルは飛び込みのチェックインであり、当然その室内に彼が滞在している様子はなかった。身許は不透明で素性も知れない相手にもかかわらず、それさえも凜一にはひどく魅力的で傾く心を止めることができなかった。
 歩く間ふたりの間に会話はなく、まもなく京阪の四条駅を越えて縄手通りを横切る。そのまま真っすぐに四条通りを進んでやがて、祇園に足を踏み入れた。
「こよひ逢う人 みなうつくしき、か。」
 不意に千尋が振り返る。凜一は頭上に輝く夏とも秋とも云えない端境の月が、急に桜月夜のような忘れがたい月のように思えて胸が高鳴った。花見小路はいくらか歩いた後、千尋の歩みは脇の細い路地に逸れる。この辺りになると観光客の姿はなくひっそりとしていた。
 ふたりの靴音だけが石畳に響く。凜一が前を歩く千尋の足元ばかりを見つめていると、右手の指に節くれた男の指が絡んだ。驚いて顔を上げると愉快そうに微笑む千尋の顔とぶつかり、凜一の腰はぞわりと震えた。そのまま手を引かれて、千尋の道行に従った。
 祇園の路地を進むといかがわしいネオンを点灯させているが、まだ新しく清潔感のあるラブホテルが立っていた。千尋は躊躇うことなく凜一の手を引いてそこ中に入る。フロントで手続きを済ませ、鍵を受け取ると、人がふたり乗ればそれでいっぱいの狭いエレベーターに乗り込んだ。その間も繋がれた手が悪戯に動いて凜一の欲望を掻き立てる。
 エレベーターを降りると頭上にある矢印の案内板がチカチカと点灯し、予約した部屋へと誘導をする。通常のホテルにはないその仕様が凜一の欲望を一層煽った。
 部屋には千尋が先に入り、凜一が後に続く。靴を脱いで玄関とベッドルームを仕切る扉を開いて中に入ると、凜一は衝動が抑えられず、後ろから千尋の躰に腕を回した。昨晩、この躰が凜一の躰から散々に快楽を引き出したのだ。
「千尋さん……、」
 知ったばかりの名が愛おしい。服の上からその背中に口づけを落とす。気持ちよくなって欲しかった。気持ちよくさせて欲しかった。
「焦るな……。」
 千尋は凜一の腕の中で躰を反転させると、あやすように口づけを落とす。煙草とアルコールの香りに凜一は当てられた。
「シャワー浴びてこい。逃げやしない。」
 昨晩は凜一を置いて帰った男がぬけぬけと云う。ずるいとさえ云えず、促されるままに凜一はバスルームに向かった。シャワーを浴びながら凜一は念入りに中の準備をする。はしたないことをしていると自覚するほどに興奮し、指の届かない奥は期待して震えた。
 凜一がバスローブを着てベッドルームに戻ると、千尋はベッドの隅に腰かけて煙草を喫んでいた。紫煙を纏ってどこか愁いた睛をしている。
「いい子で出て来たな。」
 千尋は煙草を灰皿に押し付けると立ち上がって、凜一の頬に手を添えて口づけを落とす。
「やめたくなったら帰っていいんだぜ。」
 そしてそれと同じ口で凜一の期待や甘い感傷を打ち砕くようなことを平気で云うのだった。呆然とする凜一を置き去りにして千尋はバスルームに向かう。
 凜一は疼く躰をベッドに横たえて千尋を待った。思ったよりも酷い男なのかもしれない。そう思うと、凜一はこれまで以上に千尋のことが欲しくて堪らなくなった。
 千尋を待つ間、凜一は連日の疲れとアルコールのせいか、ベッドに横たわるうちに、うつらうつらとしていた。それほど長い時間微睡んでいたつもりはなかったが、ふと睛を覚ますと顔の上には影が落ちて、二本の腕が檻のように凜一を捕らえていた。
「随分と余裕があるぢゃないか。」
 不敵に笑う千尋が凜一を見下ろしていた。一瞬で覚醒した凜一が弁明のために起き上がろうとするのを、千尋はその肩口を押して再びシーツの中に沈める。心臓がおかしいぐらいに脈打っていた。
「どうして欲しいんだ、」
 凜一がそろりと男を見上げると、捕食者の睛がそこにあった。求めていたものだった。
「酷くてもいい……、最後まで、して欲しい……、」
 凜一が恥じらいながら、そろりと見つめ返すと口づけが落とされる。
「おまえが泣くまで好くしてやるよ、」
 凜一の腰の奥が疼いた。千尋は凜一を組み敷いたまま、その下唇を指でなぞる。言葉とは裏腹に、千尋は凜一が欲しがっているものをすぐに与えるつもりはないらしかった。焦らされているのが悔しくて、凜一はその爪先に舌で触れて愛撫する。たっぷりと唾液を絡ませて、舌の裏側の柔らかなところで優しく撫でて、上唇で食む。凜一の好きなようにさせている男が憎らしくてその指に歯を立てると、お返しと云わんばかりに耳に触れられる。耳介を一周撫でられると、耳穴に指を抽出されて深く感じ入った。
「あぁ……やぁ……、」
 堪えられず凜一が甘い声を上げると、耳に差し入れられるのは指から舌先に変わる。舐られて、食まれて、凜一が快感から逃げようと躰をよじらせても抱き込まれて逃がしてもらえず、逃がしてもらえないのが気持ちよくて、凜一は四肢をよじらせる。
「あ……あぁ……あ、」
 シーツを固く握り込んで快感に耐えていると、バスローブの前を広げられて凜一の薄い肌は外気に晒されて微かに震えた。
「もっといやらしい声で啼いてみろ、」
 胸を弄られて口づけをされる。柔らかく絡んだ舌の心地よさに委ねていると不意打ちのように強く吸われて思わず声が洩れる。指先で胸の突起に刺激を与えられるとそこは熱を持って痺れ始める。柔らかかった胸先が固さを帯びると食べ頃だと云わんばかりに舐められて、転がされて、吸われた。
「んあ……、あぁ……ぁ、」
 身悶える凜一の躰をあやすように、千尋は腰から臀部、腿と形を確かめるように撫でて、再び咥内を蹂躙する。しかし凜一が触れて欲しいところは巧妙に擦り抜けていく。
 躰が切なくて、凜一は半身を起こして千尋の肩に両手を掛けると、彼のバスローブ越しに緩く立ち上がった性器を擦りつけて腰を揺らした。
「おね、がい……、もう……はや……く……、」
 上がった息の間に紡ぐ言葉は形にならない。羞恥に耐えて耳元に囁きかけるとようやく千尋の手が凜一の前に触れる。
「もうこんなにして、はしたないやつだな。」
 途端に凜一は頬がカっと熱くなる。千尋の首筋に顔を埋めて顔を背けようとするが、千尋はそれを許さず指先で凜一の頤を捕らえ、目元に溜まった泪を舌で掬い取る。
「まだ泣くには早いぜ、」
 そう云うと千尋は凜一の前を扱き始める。求めていた刺激に凜一の躰は強く反応した。先端からは透明な雫がとめどなく溢れ出てぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てる。
「ぁッ……いやぁッ……、んんぁ……あぁ、」
「自分から強請っておいて、いやはないだろう。」
 耳たぶを甘噛みされて意地悪く囁かれればさらに自身が膨らんだ。はしたない。恥ずかしい。やめてほしくないのに口からは「いやいや」とこぼれ出る。もっと辱しめられたくて、でもどうしようもなく恥ずかしくて、もう出してしまいたいのに絶頂が近づくと凜一を攻め立てる手は緩く引いていき、引いたかと思えば強く扱かれてまた快楽の頂点へ連れて行かれる。
「もう、あぁ……、おねが、い……ッああ、」
「どうして欲しいのかちゃんと云ってみろ。」
「もう……あぁあ、だめ……。いかせ……てぇ」
 懇願する凜一のこめかみに千尋は口づけを落として刺激を強める。凜一は押し寄せる波に逆らえず、千尋の首筋に縋りついて喘いだ。
「んっ……あぁ、」
 甘い声が鼻を抜けると同時に凜一の腰が跳ねる。やり場のなかった熱がようやく解放されたのだ。荒い息で快楽の余韻を味わうが、睛を下腹部に向ければ凜一の白濁が千尋の手を汚しているのが見え、それがひどく生々しくて躰の熱がさらに上がった。
「満足したか、」
 千尋は凜一の目尻に唇を落とし、枕元にあるティッシュで手を拭う。その手に追い詰められたのだと思うと凜一は堪らない気持ちになり、千尋に躰を寄せて欲望を告げる。
「もっと……、して……欲しい……、」
 千尋が知らない相手だからだろうか。旅先にいるからだろうか。昨晩は触れてもらえなかったからだろう。腰を浮かせて千尋の首筋に、音を立てて繰り返し口づける。触って欲しいところがひくついて千尋を待ちわびていた。すると凜一の後孔が柔らかくなぞられる。肌が歓喜に震えた。
「そのまま膝立ちでいろ。」
 千尋は躰を捩らせるとベッドサイドに置かれた潤滑剤のボトルを手に取った。室内には行為に使用する道具の自動販売機があり、凜一が風呂に入っている間に用意してくれたらしい。常ならば受け入れる側の凜一が自らの安全のためにも用意するそれを、千尋が用意してくれていることにうれしさを感じた。千尋はそのボトルを開けると、中身を掌で練って温める。その様子がとても淫らで、凜一が思わず睛を逸らすと後孔に触れられた。
「ん……、」
 縁をなぞられて息が洩れる。早く中に欲しくて、もどかしくて千尋を見遣ると、凜一の痴態を余さず見上げる千尋の睛にぶつかって、奥が蠢いた。
「入れて……、」
 凜一が懇願すると、つぷと濡れた音を立てて指が侵入してくる。始めは緩く、くすぐるような緩慢な動きで凜一の中を探る。
「痛くないか、」
 千尋は少しずつ奥に指を進めながら凜一に尋ねる。傲慢なようで、不意に優しくて、心までが満たされていく。凜一が頷いて答えると、中に入れられる指の数が増やされる。徐々に内側を押し広げられて、丁寧に愛撫されるうち、凜一の息が止まった。
「あ……っ、あぁ……、」
「ここか。」
 凜一が反応したところを千尋は見逃さなかった。執拗に、けれど丁寧にそこを愛撫されると凜一の躰は悦んで孔は千尋の指を咥えこむ。緩慢だった指の動きは次第に圧を伴って刺激を強め、凜一は腰を揺らして刺激に耐える。
「ひゃ……っ、」
 凜一の中で好きに動く指が腹側の内壁を押したとき、感じたことのない刺激に凜一は堪らず声を上げた。そこは、それ以上は、そう千尋に伝えたくても声にならず、喘ぎ声ばかりがこぼれ出る。三本に増やされた指で強く中をこすられると、腰から震えて千尋の肩に崩れ落ちる。それでも千尋はゆっくりと、丁寧に、けれど凜一の快感を余すことなく暴くように、その指は凜一の孔を解していった。
「そろそろいいか、」
 あやすように背中を撫でられて、凜一は小さく頷く。そのままベッドに横たえられると、千尋は枕元にある避妊具の封を切った。気が付けば千尋のそこも勃ち上がっていて、凜一はさらに興奮した。
「凜……、」
 そう呼ばれた瞬間、千尋の先端が凜一の孔に触れて、つぷんと音を立てて押し入った。
「ああぁ……、」
 求めていた刺激に歓喜する。潤滑剤で滑る音がぐちゅぐちゅと鳴っていやらしい。圧迫感はあるが、丁寧に解されたせいか痛みはほとんどなかった。慣らすように浅い抽出が繰り返されると、ぐっと奥まで貫かれた。
「あああぁ……、」
 ぐりっと捩じ込まれるとあらぬところがじんと熱を持って悶える。ゆっくり引き抜かれて、また奥まで突かれると、凜一は千尋の躰を掻き抱いて必死に堪えた。
「大丈夫か、」
 凜一は頷いて大丈夫だと伝える。意味のある声が出せなかった。快楽を与えられて、振り落とされないよう必死につながっている中で、気遣われることはうれしけれど憎らしい。自分だけが乱れているようで悔しくて、その肩口を甘く噛んだ。
「まだ余裕がありそうだな、」
 千尋はそう云うと、凜一の片膝を折って強く穿つ。凜一が根本まで呑み込んでしまうと、内壁を擦って刺激する。
「あ……ひゃっ、」
 そのうちにある一点に触れられると凜一の躰は大きく跳ねた。指先で見つけられてしまった好いところに、千尋の先が触れて下腹部が痺れる。
「あ……ぃやぁ……だめ……それ、あ……こわ……あぁ、」
 何度なくそこを擦り上げられてぶるりと震える。強く突かれるととめどなく涙が溢れて凜一は首を振った。
「やぁ……こわい……それやぁ……、」
「莫迦。それは気持ちいいって云うんだよ。云ってみろ、」
「……あ、ああ……やぁ……きもち……いい、」
「は。やらしい顔だ。」
 もっと云ってみろ、といわれて凜一は快楽を吐露しながら千尋を一層強く締め上げる。
「やぁ……あぁん。もう……千、尋さん……。」
 切なげに凜一が啼いた後、千尋も精を放つ。互いに息を切らし触れるだけの口づけを交わす。凜一の中は再び震えた。

  ◇

 華展は四日間の会期を前期二日、後期二日とに分けて開催している。二日目のこの日は十九時で閉場したのち、後期に出展する教授や門下生が花器や花材を持って集まり、それぞれに挿けていく段取りになっていた。凜一が初日に挿けた大作は通しで展示されるが、百合の水揚げ具合を確認して花材を入れ替える。
 花の手直しが済むと、凜一は会場運営の方へ回る。細かなことは古参の門下生が取り仕切るが、必要な判断は凜一に託され、その判断で凜一の力量が試される。息つく暇はなかった。会場である百貨店との約束で、挿け込みは二十二時には終わらなければならない緊張感も凜一の疲労を増加させた。入れ替わり立ち替わり、挨拶にやって来る門下生への対応にも骨が折れた。
 すべての挿け込みが終わって凜一がホテルに戻ったのは二十二時半頃だった。帰り着く頃に体力は限界に達し、凜一はシャワーを浴びるとそのまま泥のようになって眠った。夢に落ちながらも、逢いたいという想いはいつまでも凜一の胸に残っていた。
 華展の三日目。凜一の在廊は午後からだった。会場に立ちながらも凜一の頭の片隅は常に千尋のことで占められていた。これではいけないと振り払っても振り払っても、気付けば彼のことを考えていた。
 千尋とは逢う約束をしているわけではない。千尋が凜一のことを訊ねないのと同じように、凜一も千尋のことを訊ねていなかった。聞きたいことはたくさんあった。どこに住んでいるのか、何の仕事をしているのか、恋人はいるのか、凜一のことをどう思っているのか。けれど、もし千尋が凜一とのことを火遊びと割り切っていたらと考えると、とても云い出せなかった。千尋の真意はその飄々とした雰囲気からは読み取れず、凜一の京都滞在は明日までに迫っていた。
 儘ならない焦燥が凜一の頭から消えないうちに、三日目の華展も大過なく終了する。会場を一九時に閉場すると、凜一は急いでホテルに戻ると洋服に着替えた。
 今日逢えなければ、もう逢うことはできないかもしれないという焦りが凜一を急き立てた。千尋との関係は何の約束もなく、一度切れてしまえば二度と結べる機会は訪れないかもしれない、か細い糸で辛うじてつながっているだけの頼りないものだ。連絡先の交換さえ、凜一からは云い出せずにいた。
 もしも千尋が凜一と同じく京都に一時的に滞在しているだけならば、もう今日はあのバーには現れないかもしれなかった。祈るような気持ちで凜一は支度を整える。窓の外では雨が降り出していた。凜一は旅行鞄から折り畳み傘を取り出してホテルの部屋を出た。小雨の降りしきる中、木屋町通りに向けて歩き出す。
 時刻は八時を過ぎていた。これまで千尋と逢っていた時間よりかなり早いが、凜一は待ちぼうけになることを覚悟でバーに向かった。道に溢れる傘を避けながらどうにか木屋町にたどり着くが、あの路地の店は暗いままだった。訝しく思いながら店に近づくと、入り口には臨時休業の貼り紙が無愛想に貼られていた。
 凜一は、望みを断たれたことを悟った。糸よりもか細いつながりが、音を立てて切れた気がした。雨脚は強まり、傘に当たって滑り落ちる雨水は線となって途切れることなく流れる。どうすべきか狼狽える凜一の背後に人の気配がした。
「今日は休みだったか、」
 凜一が驚いて振り返ると、そこにはカジュアルなジャケットを羽織り、黒い傘を傾けた千尋が立っていた。
「どうし……て、」
「あんたが来てそうな気がしたから。」
 千尋は事もなげに云うと、一歩凜一に近づいて、その腕を引いた。凜一の手からは傘が滑り落ちて千尋の傘の中に引き込まれる。突然のことに凜一が戸惑っている隙に、千尋は傘を深く持ち直すと、傘の覆いに隠して凜一に口づけをした。
「冷えてるな。」
 凜一の頬に触れた千尋がつぶやく。秋雨めいた雨だった。そう云う千尋の手もひんやりと冷たく、凜一はその手に重ねて頬ずりをする。
「あたためて、欲しいです……。」
 雨音にかき消されそうな声で、凜一は静かに強請った。
 凜一は一昨日の夜に千尋と入った祇園のラブホテルにいた。先にシャワーを浴びた凜一は、千尋が風呂から上がって来るのをベッドの隅に腰かけて待っていた。室内の椅子に無造作に掛けられたジャケットをじっと見つめて思案していた。もうチャンスはないと覚悟を決めると、凜一はそのジャケットの内ポケットに手を伸ばした。いけないことだとはわかっていたが、焦りが凜一を駆り立てていた。千尋とのつながりが何でもいいから欲しかった。
 そこには手触りの良い革製のカードケースが納められていた。手に取って開くと名刺が何枚か入っている。一枚一枚を確かめていくと「小椋千尋」という名刺が複数枚入っているのが見つかった。肩書は明倫館大学の文学部英文科の講師となっている。明倫館は京都の名門私立大学だ。凜一は胸中で謝罪しながらもその名刺を抜き取って自らの財布の中に仕舞う。それを手に入れたからといってどうすればいいのかはわからなかったが、細い糸をどうにかつなぎとめたいという思いが強かった。

  ◇

 千尋と過ごした翌日が華展の最終日だった。この日は十六時に閉場して搬出を行う。搬入とは異なり、すべてを片付けるのは早い。三時間ほどですべてが片付くと、この日は宮川町で打ち上げとなった。東京からの教授格と古参の門下生と京都支部の面々の揃った打ち上げは懇親会の側面もあり、一軒目が終われば二軒目と夜は長く続いた。凜一も東京と京都の橋渡しをしながら梯子酒に付き合った。その宴の中では、いくらか凜一の手際を称揚する声も聞かれた。それが本心であれ、政治的な発言であれ、とにかくは滞りなく華展を終えることができたのだと凜一は安堵した。だが、最後の夜に千尋に逢えなかったことはどうしようもない心残りだった。
 華展の打ち上げの翌日、凜一はまだ京都にいた。本来ならば午前中の新幹線に乗って東京に戻る予定にしていたが、昼過ぎに凜一が立っていた場所は明倫館大学のキャンパスの中だった。この行動が火遊びのマナーに悖ることを凜一は充分に承知していた。何をどうしたいのかも決められないまま、せめて京都を去る前に一目千尋を見たいという思いだけでここまで来ていた。
 正門近くのキャンパスの案内板を見て、文学部の教員棟の場所を確認して歩き出す。心臓は嫌な音をさせて凜一の耳元で騒ぎ立てていた。こっそりと、姿だけでも見られればと、凜一は昨晩抜き取った名刺を眺める。
 迷いながらも教員棟にたどり着くと、凜一の緊張はいよいよ限界に達した。一階には講義用の大教室と小教室があり、教員の研究室は二階から上階にあることをフロア図で知る。
 二階に上がると、凜一はフロアの端から端までを歩いてドアに掲げられた研究室の名前を探していくが、小椋千尋の名前は見当たらなかった。残念と安堵がない交ぜになった気持ちのまま凜一は三階に上がった。再びフロアの端から研究室の名前を探していると、不意に女子学生の声が響いた。
「小椋先生。」
 突然聞こえてきた名前に凜一の鼓動は凍り付く。その声は目の前で開いたドアの中から聞こえてきた。開いたドアは凜一の方に向けて開き、そこには「小椋研究室」と確かに書かれていた。
 探し物が予想外のタイミングで見つかったことで凜一の焦りは極限まで高まった。突然開いたドアから隠れられるような場所もない。言い訳もできない状況で、女子学生を見送りに部屋の主と思われる男が現れる。もうだめだと凜一は息を詰めるが、次の瞬間異なる意味で凜一の息は止まった。
「何か用かな、」
 姿を現した男は、凜一の探している男ではなかった。凜一が呆然と立ち尽くしていると、男の方で気づいて凜一に声を掛ける。想定外の事態に凜一はうまく頭が回らなかった。
「あの……、小椋先生ですか、」
「小椋は私だが、君はここの学生かな。」
「あの、ぼくは小椋先生を訪ねて来たつもりだったんですが、どうも違ったみたいで……、」
 凜一は手にした名刺と男の顔を交互に見遣りながら、説明できない事情をどう説明すればいいのか混乱していた。まさか情事の相手が忘れられず探しに来たなど、云えるわけがなかった。
 男も困惑した様子で凜一の前に立っているが、凜一の持つ名刺に目を留めて言葉をつないだ。
「……、君が持っている名刺、いいかな。」
 どこで手に入れたと聞かれれば答えようもない。凜一が冷や汗を掻いていると、名刺を見た目の前の小椋千尋が緩く笑った。
「これは先日刷り直したばかりの新しい名刺でね。渡した相手もはっきりしているんだ。これは、その探しているという人から直接貰ったのかな。」
「いえ……。それは、あの、ぼくが……。」
 凜一が応えられずに困りきっていると、小椋千尋は声を出して笑った。
「まさかだけど、この名刺を持っていたのは、君より一回りは年上で、煙草喫みで、銀縁の眼鏡を掛けた、口の悪い東ことばを使う男かな。」
 凜一が驚いて顔を上げると、それが答えだと察した男は肩を震わせて破顔した。
「あいつろくに帰って来ないと思えば、こんな若いのを引っかけてたのか。」
 おかしくて堪らないとひとしきり笑った後、小椋千尋は凜一に向かって悪戯めいた顔を向ける。
「多分、君が探している男は俺の身内だ。君に逢わせてあげられなくはない。今晩時間はあるか。」
 すっかり砕けた調子で千尋は凜一に誘いをかける。
 凜一は東京に戻る予定を一日ずらしてここにいるわけだが、戻ったところで休暇の予定にしていたので帰るのが一日や二日ずれても影響はなかった。凜一が頷くと、千尋は研究室の中に入るよう促して紙に地図を書き始める。
「於じまという割烹旅館だ。ここで今日はヤツと吞むことになっていたんだが、君も来るといい。六時で予約してあるから、小椋の連れだと云えば部屋に通してくれる。」
 突然の展開に凜一は戸惑う。自分がそこに顔を出していいのか判断がつかなかった。名前さえ隠されていたことを考えると、やはりあの男にとっては自分は火遊びでしかなかったのではないかと不安がもたげる。
「ところで君はなんというのかな。」
 凜一が逡巡する間、千尋に真っ当なことを訊ねられて凜一は慌てて頭を下げた。
「原岡と云います。原岡凜一です。」
「原岡……って、天海地流の、」
「ご存知なんですか。」
 今度は凜一が驚いて問い返す。天海地流は由緒こそ古いが、全国的に名を知られた規模の大きな流派ではない。現在は凜一の実家である宗家が東京にある関係で関東圏での活動が主にしていることもあり、西日本での一般的な知名度はそう高くはない。
「なんとなくわかってきたよ。あいつが君に名前を教えなかった理由もね。今晩はぜひ座敷においで。種明かしをしてもらったらいい。」
 納得がいった様子の千尋は躊躇う凜一の背を押す。きっと来るんだよと念を押され、凜一は千尋の研究室を後にした
 勝手に拝借した名刺が一枚の地図に変わった。凜一は落ち着かない気持ちでそれを大切に胸ポケットに仕舞った。

  ◇

 夕方、凜一は千尋に手渡された地図を頼りに於じまと屋号の書かれた行燈の前に立っていた。割烹旅館と教えられた於じまは、凜一の想像よりも遥かに小さく、旅館らしい造りをしていない外観は何度かその前を通り過ぎてようやく気づくような建物だった。早めにホテルを出たにも関わらず、六時には十分ほど遅れた凜一は躊躇いながら玄関をくぐって帳場の女性に小椋の名を告げる。
「千尋さんから聞いてはりますよ。さあどうぞ。」
 この割烹旅館の若女将だと名乗る女性の後について廊下を歩く。案内された部屋は二間続いた座敷と次の間がついて広々としていた。出入り口の目隠しをする屏風越しに、若女将がお連れさんがみえましたよ、と声を掛けると、中からああ、と不愛想な声が返る。それは凜一が探していたあの声だった。
「遅かったぢゃないか、千、ひろ……、」
 煙草を片手に坪庭に向いていた睛が振り返った。そこにいるのが凜一だと気づくと男の言葉は止まった。暫しの沈黙の後、紙を焼く音がして灰が落ちる。時が止まったようだった。
「あらあ、千尋さんから聞いてはらなかったの。連れがひとり増えるから席を用意ほしいと連絡があったんやけども。」
 若女将が京都弁の柔らかなイントネーションで話すと、男は煙草を灰皿に押し付けて火を消した。やがて額に手を当ててくつくつと喉を鳴らして笑った。
「おかしと思ったんだよ。なんで三席もあるのか。日菜さんが来るのかとも思ったんだが、あんただったのか。」
 男が苦笑しながら云うと、座れよと前の席に凜一を促した。
「日菜さん……ですか、」
「千尋と逢ったんだろう。あいつの嫁さんだよ。俺が京都にいるのは、あいつの結婚式に出るためだ。」
 凜一が男と初めて逢った夜、男が大振りのホテルの紙袋はやはり引き出物だったというわけだ。
「……恋人、だったんですか、」
 昼間に逢った千尋が男のことを語る口ぶりと、目の前の男が千尋について語る口ぶりの親しさに、不躾な言葉が口をつく。無意識に転がり出た言葉に凜一は恥じ入った。千尋の好意に甘えてやって来た分際で浅ましい。凜一がそう思うのとは反対に、なぜか男は面白がっていた。
「嫉妬か。」
 そう問われて凜一の頬は途端に熱くなる。結局、凜一の気持ちはすべて見透かされていて、この男の掌でいいように転がされているようで恥ずかしかった。
「そうやって若いやつを誑かしているのか、おまえ。」
 凜一が何も答えられずに俯いていると、屏風の奥から千尋が姿を現した。
「人聞きが悪い。そもそもどうしておまえらが知り合いになっているんだ。」
「細かいことはいいだろう。それよりも、人の名前を勝手に使って若い子を引っかける了見の方が悪いとは思わないのか。」
「それについては悪かったが、凡そ見当はついている。名刺だろう。この間お前から貰った分がなくなっていた。」
 千尋は凜一の隣に腰を下ろす。遠慮のない応酬をするふたりに凜一が睛を白黒させていると、瓶ビールが運ばれてくる。さあ注げと千尋が尊大にグラスを差し出すと、男は苦笑しながら瓶を傾ける。凜一にもグラスを持つように促すとそれにも注いで、自らのグラスには手酌で注ぐ。全員のグラスに黄金色の液体が満たされると、千尋が音頭を取って乾杯と三人で声を揃えた。最初の一口を嚥下すると、千尋が口を開く。
「最初の話に戻るが、俺とこいつは兄弟なんだ。父親が放蕩だったもんで、母親違いではあるんだが。今は難しいことは抜きにして兄弟付き合いをしているんだ。」
 そこから先はおまえがちゃんと話せと、男は千尋に促される。千尋の説明の間、我関せずという様子で突き出しの胡麻豆腐を口に運んでいた男は、観念したように箸を置いた。
「今の通り、千尋と俺は異母兄弟だが、母親が再婚した関係で今の俺の姓は英だ。名前は千迅と云う。黙っていたのは悪かった。だが、おまえ原岡の人間だろう。」
 突然に素性を言い当てられた凜一は動揺した。手にしたビールグラスを膳の上に置いて小さく頷く。
「原岡、凜一と云います。」
 どうして、と凜一がつぶやくと、初めて逢った日の夜に眠っていた凜一の財布の保険証を見たのだと事もなげに云われた。千迅の方が、凜一よりも余程周到に手を回していたことに驚く。
「俺の亡くなった母親が、原岡の遠縁にあたるんだ。所属していたのは山口支部だが、俺も晟先生の教えを受けていた。」
 予想もしないところで凜一の亡き父親の名前が転がり出る。本来であれば家元を襲名し、この京都で采配を振るっていたのは亡き父のはずだったのだ。父親夭折から、凜一の家元修業が始まっていた。
「次期家元なら知っているだろう。本来天海地流の主流は中国地方にあって、俺の母親はその主流派の家系だったんだよ。今はもう天海地流は東京に移って中国地方支部もかつてほどの勢いはないが、そこに至るまでに色々あって、差し障りがあるんだよ。俺は母親が亡くなって、晟先生も早逝されてから流派を離れたが、掌中の珠の次期家元がかつての主流派に誑かされていると知ったら、家元は大層ご立腹だろう。」
「ぢゃあ、最初からぼくのことを知っていたんですか、」
「バーで逢ったのは偶然だ。千尋の結婚式に出た後に、吞み足りなくて立ち寄ったんだ。おまえ、仕事で花の匂いがついたと云っただろう。そう云われたとき、よく見れば晟先生の俤がある気がしたんだよ。京都で天海地流の華展があるのは知っていたしな。」
 千迅は箸休めにビールを呷る。凜一は明かされる事実に整理が追い付かなかった。
「凡その事情は呑み込めた。だが込み入った話になってきたようだから俺は退散するぜ。千迅には借りひとつだからな。」
 千尋は千迅の肩を叩いて席を立つ。千尋は凜一をこの座敷に誘ったが、ふたりの核心には立ち入らない線の引き方が信頼できる大人だと感じられた。
「昼間云ったようにここは割烹旅館なんだ。今日はこいつと食事をした後に兄弟水入らずで一泊するつもりで部屋も取ってあったんだが、君が泊まっていけばいい。積もる話もあるだろう。」
 千尋が意味ありげに千迅を見ると、鬱陶しそうに手を振って千迅は追い払う。
「日菜さんによろしくな。」
「日菜も逢いたがっていたから、また京都に来いよ。」
 千尋は親愛を感じさせる一瞥を千迅に送って部屋を出た。賑やかだった千尋が去ると、ふたりの間にはしんとした夜の静けさが戻ってきた。
 千迅が空になった凜一のグラスにビールを注ぐと、仲居が次の料理を運んでくる。箸休めの鯖寿司だった。千迅は凜一に日本酒は飲めるかと訊ね、凜一が頷くと地酒の冷酒を注文する。冷酒が運ばれて来るまで、ふたりは黙々と鯖寿司を口にした。
 広縁の硝子戸は開け放たれ、心地よい夜風が吹き込んでくる。千迅は眼鏡を外して机上に置いた。
「おまえに逢うのは、これが初めてぢゃない。」
 冷酒が運ばれてくると、千迅は凜一の猪口に酒を満たして云った。その水面に静かに波紋を広げるような、ごく穏やかな声だった。
「俺がまだ学生で、おまえが赤ん坊の頃だ。月に一回、山口から東京に稽古に行っていたんだ。稽古の終わりに、生まれたばかりのおまえを腕に抱いたんだ。まさか大人になったおまえも抱くことになるとは思わなかったけどな。」
 喉を鳴らして笑う千迅の無防備な笑顔に、知らず凜一の鼓動は高鳴った。
「だから、ですか……。最初の夜、最後まで抱いてくれなかったのは。」
「一度抱いたらなかったことにはできないだろう。」
「でも、あの後もバーに来てくれましたよね。そこまで考えてくれていたなら、どうして……。」
「そりゃあおまえ、」
 千迅は凜一の睛の端に滲んだ泪を拭って、その指をぺろりと舐める。
「惚れたからだろう。」
 凜一の世界から音が消えた。心臓が撃ち抜かれたようだった、凜一は衝動的にその指を取ると、甘く歯を立てて口づけた。
「好きです……、」
 云わずにはいられなかった。後も先も打算もなく、ただ好きだと思った。この男が欲しいと思った。
「知っている。」
 凜一が口づけた指を取り返して、そのまま唇で触れて笑った千迅に、凜一の背中がぞわりと震えた。躰の奥から熱が湧いて、今すぐにでも触れて欲しくて頭がおかしくなりそうだった。
 屏風の向こうからは料理を運んでくる仲居の声がする。この日の夜はまだ長い。嵐のように交わるだけの夜ではなかった。押しとどめる熱にじりじりと灼かれながら、凜一は食事を続けた。言葉はもう必要なかった。
 水物まで食べ終えて茶を啜っていると、凜一は千迅に風呂へと追い立てられる。まるで初めて情を交わす前のように、凜一は期待して緊張して長風呂に浸かった。
 室内に戻ると、二間続きの部屋の一間に、布団が並べて敷かれていた。千迅は広縁に腰かけて紫煙を燻らせている。線になった煙が幾重にも漂って、まるで千迅を囲う帳のようだった。凜一の心はざわついた。
「随分と長風呂だったぢゃないか。」
 凜一に気づくと、千迅は煙草を灰皿に押し付けてから立ち上がる。凜一の見知った千迅の顔に戻っていた。
「風呂に入って来る。逃げるなら今だぜ。」
 千迅は横切りざまに凜一に口づけると、同じ口で酷いことを云う。凜一が眉根を寄せて千迅を見上げると、こめかみに口づけを落とされてあやされた。
 思い返してみれば、千迅はいつでも凜一に逃げ道を用意していた。凜一の立場を慮り、云い訳が立つように、最後の一線が守れるよう周到だった。
 凜一は千迅の座っていた広縁に正座して、硝子戸に側頭部を預けて夜空を見上げた。欠けた月が高く煌々と輝いている。鼓動が高鳴る。じわりじわりと上がる躰の熱。言葉よりも衝動が凜一の気持ちを確かなものにしていた。
 どれほどの時間が経っただろうか。二間続きの部屋は、布団が敷かれた後、障子で仕切られていた。障子が桟を滑る音がして凜一は振り返る。浴衣を着た千迅が、布団の上で正座した凜一を見下ろしていた。
「おまえは莫迦だな。」
 衣擦れの音をさせた千迅が、凜一の前に座ってその髪を撫でた。凜一はその手に自らの手を重ねて頬でその感触を味わった。
「ぼくが莫迦なのだとしたら、それはあなたのせいです……。」
 千迅でなければ、行きずりの相手に執着などしない。流派での立場も盤石には程遠い。凜一の足元を掬いたい輩は幾人でも思い浮かべることはできる。けれど単純な天秤の力学で、凜一には千迅の方が重く手を離すことなど考えられなかった。
 千迅は凜一の答えに苦笑すると、そっとその肩を押して凜一を布団の上に横たえる。
「隣には客がいる。今日は声を抑えろよ。」
 殊更に凜一の羞恥を煽るのがこの男の手管なのだと、わかっていても凜一は頬が赤く染まるのを止められなかった。千迅と睛を合わせられず顔を背けると、千迅に向けて露になった耳朶が食まれてその裏側を舐められる。
「ひゃ……っ、」
「おまえの声が聴けないのは惜しいがな……。」
「え……、」
 凜一は快感に悶えて固く閉じていた睛をそろりと開けて千迅を見遣る。
「感じ入って喘でいるおまえはかわいいぜ。」
 あまりに直裁な物云いに凜一が口をはくはくさせて言葉を継げずにいると、あっという間に唇を捕まえられて深く口づけられる。
 首筋を撫でる手は次第に降りていき、肩から胸を弄られる。浴衣はとうにはだけて凜一の白い肌が晒される。凜一が夜風に肌を震わせると、包み込むように抱きしめられて唇で丁寧に触れられた。溶けるような時間だった。十分に愛された後に中に千迅を受け入れると、もうそれだけですべてが溢れそうなぐらい躰中が歓喜に戦慄いた。
「名前、呼んでみろ。」
 息を荒らした千迅が囁きかける。揺さぶられるたびに洩れ出そうな声を必死に飲み込む凜一には無体な求めだったが、そこに籠る僅かな熱が凜一の肌をちりちりと灼いた。
「英、さん…」
 呼びなれない男の名前を恐々と舌に乗せてつぶやいてみる。
「違うだろう。」
 千迅は凜一の好いところを擦り上げる。思わず淫らな声が上がって凜一は自らの腕を噛んで声を押し殺そうとするが、千迅はそれを許してはくれない。凜一の噛んだ歯型の後を舐め上げて、云ってみろと睛で促す。
「……千迅……さん、」
「さんはいらない。」
 凜一が言い淀んでいると、千迅は動きを止めて焦らしにかかる。千迅によって高められた躰は急な刺激の途絶に戸惑うばかりだった。決定的な快楽を得られずに我慢のを強いられる凜一は、知らず腰を揺らして先を強請るが千迅は笑うばかりでその誘いに乗っては来ない。
「ち、千迅……、」
 凜一がようやく絞り出すような声で呼びかけると、腹の中で膨らみが増すのを感じた。
「ああ。」
 頷いてゆっくりと動き始める千迅に、愛おしい気持ちが募る。凜一の中で男の名前がほどけていく。
「あぁ、千迅、千はや、ちはや……あぁ」
 息を殺して、喉の奥を絞って、千迅以外に洩れ聴こえないように、縋りついて夢中で名前を呼んだ。あえかな声が洩れ出そうになれば、噛めばいいと千迅の肩をあてがわれる。溺れるように喘ぎ、その息の継ぎ間に名前を呼ぶだけで凜一の中はおかしいくらいに乱れて、遂に後ろへの刺激だけで果てる。
「上手に達けたぢゃないか。」
「千迅さんも……、気持ちよくなってください。」
 凜一は泪をこぼしてそれを請う。千迅は長く音を立てて息を吐き出すと、額に掛かる髪を掻き上げて凜一の唇を奪った。
 凜一が朝目覚めると、傍らには寝息を立てる千迅がいた。共に朝を迎えるのは初めてだった。規則正しい寝息を立てる千迅は、まだ目覚めそうにはない。凜一はその髪先に鼻を埋めて思い切り匂いを吸い込んだ。心が満たされていくのを感じた。
 それから三十分ほど後、凜一が再び微睡んでいると、今度は千迅に起こされる。朝食が部屋に運ばれてくるという。昨夜の余韻に浸る間もなく身支度を整え、千迅と朝食を摂っていると、あまりにも千迅の変わりのない様子に、昨夜の相手は本当に千迅だったのかと、不思議な心地になった。しかし向かい合う千迅の首筋の奥に、覚えのある歯形が見え隠れしているのに気づいた凜一は顔を背ける。情事の名残だった。凜一は躰に残る鈍痛とともに、千迅との残り短い時間を噛み締めた。
 於じまを出たのは九時頃だった。千迅は有休消化も兼ねて京都を訪れており、あと一泊してから現在の居住地である東京に戻ると凜一に告げた。東京に在住する凜一はその事実に胸が高まる。
「東京でも会ってくれますか、」
 凜一は震える声で問いかける。すっかり高く上った朝の太陽が眩しく、凜一は睛を細めた。
「おまえが望むなら。」
 そう云った千迅は凜一の胸ポケットに名刺を差し込んだ。すかさず凜一が取り出すと、それは千迅の勤め先の名刺だった。会社の連絡先の下に手書きの電話番号が記されていた。
「今度は間違えて持って行くんぢゃないぞ。」
 地悪くそう囁かれて、凜一は厄介な男に心を奪われたことを悟った。