鬼の霍乱

 凜一は先方の都合で打ち合わせが急遽キャンセルになったために、午後からの予定が白紙になった。休みを取れることになったので家へ行ってもいいかと千迅に連絡を取ると、風邪を引いたから来るなと云われた。
 千迅は都内に家族や親戚もないために、普段から体調管理には気を遣っている方だったが、一昨日乗せた客がひどい風邪をひいていたらしく伝染されたのだろうと掠れた声で云った。
 凜一は看病に行くと云ったが、元々躰の弱いやつがわざわざ病人のところに来るんぢゃないと一蹴されて電話を切られた。それが千迅の気の遣い方ではあったが、一人暮らしの千迅を凜一が放っておけるはずもなかった。
 電話の後、薬や食べ物を買い込んだ凜一は千迅の部屋のインターフォンを押した。部屋の中からは物音ひとつしなかった。凜一は預かっていた合鍵でドアを開ける。部屋の中はしんと静まり返ってひんやりとしたままだった。
「千迅さん。」
 凜一は台所に買い物袋を置き、リビングを抜けて寝室に向かった。ノックをしても中からは反応はなく、凜一はそろりとドアを開けた。
「あ……、凜一か……、」
 人の気配に気づいたのか、眠っていた千迅が睛を醒ます。
「ごめんなさい起こしてしまって……。熱もありそうですね。体温計ありますか。」
「莫迦……。おまえ、来るなと云っただろう。伝染ったらどうする……。」
 躰を起こそうとする千迅を手で制して、凜一は自宅から持ってきた体温計を千迅に渡す。
「病気のことは病人が一番よく知っているんですよ。千迅さんだって、昨日電話しなければ風邪をひいたこと、ぼくに云わなかったでしょう。」
「そりゃ、こうなることは解っているからな……。」
「ちゃんと具合が悪いときは教えてください。あ、熱八度ありますね。横になってください。水分摂ってますか。何か食べましたか。」
「おまえ、なんかうれしそうだな……。」
 テキパキと面倒をみる凜一に千迅は云う。その口調にいつもの強さはない。凜一は千迅の額に手を当てて熱の具合を確かめる。
「千迅さんが風邪をひいているのは心配していますけど、普段と立場が逆なのでなんだか新鮮ですよね。」
「弱っているのが面白いんだろう……。」
「憎まれ口も結構ですけど、ぼくはお粥作って来ますから、寝ていてくださいね。」
 凜一は千迅に布団を掛けると台所で粥を作り、この日の夜か翌日の食事用に空いた鍋にうどんのだしを作って置いておく。冷蔵庫には買ってきたうどんとお茶とゼリーを入れた。 
 台所の様子では食事はしていたようだが、シンクには使い終わった食器が置かれたままで、まめに片付けをする千迅には珍しい。体調の悪さが伺われた。
「千迅さん、お粥できましたけど食べられそうですか。」
凜一は微睡んでいた様子の千迅に声を掛ける。
「……喰う。」
 千迅は気怠げに上半身を起こし、凜一は熱っぽいその横顔にどきりとする。眼鏡は掛けず髪は乱れ、しんどさからか伏し目がちの千迅はひどく艶めかしく、凜一は思わず睛を背けた。
「食べられる分だけ。梅干し入れますか。」
「ああ。あるといいな。」
 そんな凜一の心中に気づいた様子もなく、千迅は凜一が鍋からよそった梅入りの粥をゆっくりと咀嚼する。
「悪いな……。残りはまた後で貰う……。」
 茶碗一杯ほどの粥を食べた千迅は深く息を吐いた。
「残りは台所に置いておきますから。薬も買ってきたのでこれを飲んでよく寝てください。」
 凜一はコップの水と錠剤を千迅に差し出し、受け取った千迅は一息に飲む。熱で頭がふらつくのか、千迅は怠そうに横になった。
「……もう少し、千迅さんの傍にいてもいいですか。」
「伝染るぞ……。」
「いたいんです……。」
「好きにしろ……。」
 千迅はそれだけ云うと睛を閉じる。凜一は汗ばむ千迅の顔をそっとタオルで撫でた。鍋に残った粥を台所に持って行き、音を立てないよう軽く室内の掃除をする。洗面所を覗くと洗濯されていない衣類が放り込まれていたため、洗濯機を回した。
 ベランダの物干しに洗濯物を干してから、凜一はそっと寝室のドアを開けた。千迅はよく眠っているのか凜一の気配にも睛を醒まさない。
「鬼の霍乱……。」
 そう呟くと千迅が身動ぎをするので、凜一は一瞬どきりとする。千迅は寝返りで凜一の方へ態勢を変えると、緩められた首元から鎖骨が覗く。
「なんで、寝ているだけなのに……。」
 凜一の心臓は煩く脈打つ。眠る千迅は無防備で、凜一は起こさないようその髪を撫でて、こっそりと唇を落とそうとしたとき、不意に千迅の目蓋が動いた。
「凛一……か……、」
 寝ぼけているのか、声も目線も焦点が合わずぼんやりとしているが、千迅は凜一の頬に手を伸ばしてそっと撫でた。
「すみません……。起こしましたか。」
 凜一は頬を撫でる手に自身の手を重ねてそっと尋ねる。しかしまだ夢見心地なのか、その問いに千迅は答えないで違うことを云った。
「なあおまえ……、なんで俺なんだ……。俺がおまえにしてやれることなんて、何もないんだぞ……。」
 ぼんやりと掠れた声で千迅は問う。凜一は息を飲んだ。
 千迅は普段本心を見せない。凜一のことを揶揄ったり理不尽なことを云ったりしては煙に巻き、ひとりきりで煙草を吹かしているほんの一瞬に見せる愁い顔だけが凜一の知る千迅の素の顔だった。
 その千迅が不意に零した本心らしきものに凜一の心は震えた。凜一は頬に触れる掌に唇を寄せてその体温をじっくりと感じた。
「千迅さんは優しすぎます……。結局はぼくのことばかりで……。千迅さんの方こそ、ぼくの勝手に巻き込まれているとは考えないんですか……。」
 千迅が凜一との付き合いをすぐに承諾しなかった訳を凜一もよく理解していた。千迅が凜一の立場や背負うものを慮って突き放したのを、それは嫌だと掴み返したのが凜一だった。千迅が欲しかった。どうしても。
「面倒なことぐらいで手を放すなら、最初から付き合わない……。おまえが厭だと云わない限りはいるさ……。」
 朦朧としながら云った千迅は、すうっと引かれるように睛を閉じて再び眠りに落ちる。ぎゅっと心臓を掴まれた凜一は前が滲んでよく見えなかった。
「莫迦……。」
 凜一は眠る千迅に触れるだけのキスをする。次に千迅が目醒めたときも傍にいたかった。