マイ・フェア・ジェントルマン

 夜の八時。凜一は帝国ホテルの孔雀の間にいた。最大三千名を収容することが可能なホテル内最大の大広間でこの日予定されていたのは政財界の懇親パーティーだった。
 凜一が場違いだと感じるこのパーティーになぜ顔を出しているのかと云うと、凜一が天海地流の門下生として個人的に指導している生徒の一人に、旧財閥系企業の経営者一族に連なる重役の奥方がおり、この奥方に「凜一先生も是非に」と出席を強く勧められたからにほかならない。
 この奥方は稽古に熱心なのは勿論だが、流派に少なくない額の援助をもたらしてくれる大切な「お客様」でもあった。 そのような事情から社交の場を好まない凜一だったが、次期家元としては断ることができるはずもなくこうして出席しているという次第だった。
 この招待はご丁寧にも配偶者を持たない凜一のために、ようやく大学に入学したばかりだと云う奥方の末娘がエスコート役に寄こされる念の入り用で、パーティーの開始前から凜一が密かに吐く溜息の数は増える一方だった。
 凜一が年若い令嬢を飽きさせないようどうにか相手を務めるうちに、主催者の挨拶が始まり乾杯の音頭が取られる。令嬢は凜一のグラスと音を鳴らすとそれは嬉しそうに微笑み、凜一はその微笑みが後々厄介事の種にならないことを願った。
 この懇親会の食事は立食形式で、令嬢が何くれと凜一の世話を焼く中で、彼女は人込みの中から見知った相手を見つけて呼びかける。
「パパ。」
 年配の男性が三四人で輪になって談笑している。その中の一人が弾かれたように声がした方に顔を向けると、笑顔で手を振る令嬢を見つけて柔和な笑顔を見せた。
「やあ。楽しんでるかな。」
 年配の男性が談笑の輪を抜けて凜一達の方に近づいてくる。
「パパ。こちらが凜一先生。ママのお花の先生よ。」
「家内からお話は伺っていますよ。思っていたよりもずっとお若いですな。しかし挿けられる花はとても美しいと伺っていますよ。あれの筋はどうでしょうか。どうも私はそうした方面に疎いようで、家内が挿けたものもさっぱりで。」
 恰幅よく豪快に笑う様は堂に入っており、大企業の重役と云うに相応しい貫禄だった。
「奥様は大変稽古にご熱心で、この間も―」
 凜一がどうにか慣れない社交の会話を紡ぎ出していると、ふとこの男性の後ろに付き従っている人物がいることに気づく。上背のある中々の男前で、この人物の方も凜一の視線に気づいて睛が合った瞬間、凜一は心臓が止まるほど驚いた。
「おや。やはりこちらの色男に気づかれましたかな。」
 凜一の視線をどう解釈したのか男性はどこか嬉し気な様子で、後ろに控えていた人物を前に招いて凜一に紹介した。
「こちらは英くんと云ってね、実は彼は私が懇意にしているドライバーなんだ。K大出身の癖して何がどうしてかハイヤーの運転手でね。面白い経歴だが実に勿体ない。その上こんな男前だろう。時々送迎だけではなくそのままパーティーにも出席してもらって、周りのやつに見せびらかしているんだ。あとは私の専属運転手になってくれれば云うことはないだがね。」
「私には勿体ないお誘いですよ。初めまして。英と申します。」
 男性の傍らで如才なく微笑む千迅は、凜一が見たことのないブラックスーツに身を包んでいた。
 躰にちょうどよく沿うフォルム、生地は上品な光沢を湛えた上等なウール地であることからオーダースーツであることが伺われた。シャツはウィングカラーでグレーのウェストコートを着こんでいる。タイは無地のシルバーグレーで胸元のチーフも同系色で纏められており、派手ではないがセンスの良さが際立っていた。何より髪を上げていつも掛けている眼鏡を外して佇む姿は、息を飲む男振りだった。
 凜一が言葉を継げずにいることに気をよくしたのか、男性の機嫌はさらによくなる。
「惚れ惚れするぐらいのいい男だろう。実は今日のスーツも私がプレゼントしたんだ。うちは娘ばかりでね。英くんみたいな息子がいてくれたらどれだけいいかと思うんだよ。専属運転手を引き受けてもらえないなら、上の娘の婿に来てもらいたいぐらいだよ。」
「あら。ぢゃあ私のお義兄様になられるのかしら。」
 さり気なく凜一の腕に自身の腕を絡ませながら、令嬢もうっとりとした様子で父親の様子に合わせる。
「お嬢様にはもっと釣り合いの取れたお相手が相応しいですよ。」
 千迅は隙のない微笑みで答え、凜一は事態を飲み込めないまま、表面上は和やかな談笑が続いた。
 千迅との予期しない邂逅の後も、凜一は令嬢に連れられる形で様々な人との談笑に応じなくてはならなかった。既にポケットの名刺ケースには入りきらないほどの名刺が納まっていた。
 凜一は人酔いを口実に少し夜風に当たってくることを令嬢に伝え(一緒に行くと云う彼女をどうにか引き離して)ホテルの外に出ると、突然腕を掴まれて物陰に引き込まれた。凜一が何事かと驚いたのは一瞬で、嗅ぎなれた煙草の匂いで物陰に引っ張り込んだ腕の主に見当がつく。
「ちょっ、千迅さん。」
 凜一は煙草を咥えた千迅の腕の中にすっぽりと納まっていた。
「なんで千迅さんがここにいるんですか。」
「そりゃおまえとおなじだよ。休憩だ。」
 千迅は凜一を捕まえたまま煙草の火を消すと、そのまま凜一の髪に鼻先を埋めた。
「そうぢゃなくて、どうしてこのパーティーに千迅さんがいるんですか。」
「会社のお得意様だからな。ご機嫌を損ねるわけにはいかないんだよ。」
 千迅は凜一をあやすような口調で云うが、このときの凜一は子ども扱いに怒る余裕もなかった。
「もうずるいですよ。なんで……、そんな……。そんな恰好……。」
 凜一は混乱して云いたいことがうまく言葉にならない。例え顧客であろうと千迅が自分以外の男に見繕われた衣服に身を包んでいることが気に入らない。けれどそのスーツがこの上もなく似合っているのものだから怒るに怒れない。おまけに娘婿も同然の扱いを甘んじて受ける千迅の姿に、凜一は感情の矛先が決められず心の中は滅茶苦茶だった。
「なんだ。そんなにこの恰好がいいのか。」
 そんな凜一をまるで知らない人のような顔して揶揄う千迅は、間違いなく凜一にとってのずるい男だった。
「欲情したか。」
「莫迦……。」
 それ以上千迅を直視することができずに凜一が睛を逸らすと、その隙をついて凜一の首筋を千迅が食む。
「やっ、ちょっ……、千迅さん……。」
 凜一は千迅を離そうと肩を押して遠ざけようとするが、千迅は凜一の首筋を強く吸って離れない。ようやく離れた頃には凜一は顔は真っ赤に染まり泪が滲んでいた。
「ちょっと千迅さん。こんなところ、見えるぢゃないですか。」
 凜一が精一杯の抗議として千迅の胸を叩くと、腕を掴まれて文字通りの口封じに唇を奪われる。
「見せてやれよ。おまえにはちゃんと男がいるんだってな。おまえもあのご令嬢に気を持たせ過ぎないように気を付けろよ。ぼんやりしているとあっという間に判子を押す羽目になるぞ。」
「なっ。」
 凜一が二の句を継げずにいると、千迅は凜一を抱き寄せてその額に素早くキスをする。
「あんまり女の匂いをさせるんぢゃない。」
 凜一の耳元でそれだけ囁くと、千迅は一足早くパーティー会場に戻っていく。一人残された凜一は呆然とするしかなかった。
「もう本当信じられない……。」
 凜一は千迅に付けられた痕が人目につかないことを祈りながら、重い足取りでパーティー会場に向かう。無意識にジャケットのポケットに手を入れると、名刺の手触りとは異なる薄い紙が指先に触れた。凜一が不思議に思って取り出してみると、そこには「十時半、日比谷駅」と見慣れた筆跡で書かれていた。途端に凜一は頬が熱くなるのを感じた。腕時計で時刻を確認すると今は九時半。
「あと一時間か……。」
 凜一はメモ一枚で簡単に機嫌を直してしまう自分の単純さに思うところがないわけではなかったが、煙草の移り香に不意に気づいて小さく微笑んだ。