嫉妬

 年に一回行われる天海地流の支部会は、毎年持ち回りで行われる。今年は広島支部が会場で、凜一は家元と共に四泊五日の出張に出掛けていた。支部会には全国の支部の教授格が集まり、来年一年の華展の予定や流派の運営方針についての話し合いが行われる。
 支部会の実質の開催は一日目のみであり、二日目は懇親会、三日目は家元を囲んで支部会の開催地の観光となる。今回は広島のため、宮島や平和記念公園を回った後に広島の冬の名産である焼き牡蠣を味わい、家元の体力を考慮してもう一泊してからこの出張を終了した。
 広島からの帰路の新幹線には午前中に乗ることができ、凜一が東京に戻ったのは昼過ぎだった。千迅の仕事はその日と翌日がちょうど休みだった。凜一は帰宅する時間を惜しんで、東京駅からそのまま千迅の高井戸のマンションに向かった。千迅は駅まで迎えに行くと云ったが、家元が同行していため凜一はその気遣いを断っていた。
 地下鉄を乗り継ぎ、千迅の部屋のインターフォンを押すとすぐにそのドアは開く。
「よく来たな。」
 出張から合わせて三週間ぶりに会う千迅だった。部屋着のゆるいシャツにくつろいだパンツ姿で、凜一はすぐに抱き着きたい衝動をぐっと堪えて微笑んだ。久々に顔を合わせる千迅に、凜一は照れを感じていた。
「あの、これお土産です。」
 凜一はスーツケースとは別に提げていた紙袋を千迅に手渡す。広島銘菓のもみじ饅頭と広島の地酒だった。
「ああ。悪いな。お茶でも淹れるか。疲れただろう。」
 凜一の嬉しいような緊張するような気持ちとは正反対に、千迅は三週間前とは何も変わらない様子で凜一の頭を撫でるので、凜一は悔しいようなそれでもやっぱり嬉しいようなくすぐったい気持ちになっていた。
「ありがとうございます。」
 凜一はリビングに入ってコートとマフラーを外して外出の装いを解いていきながら、ふと見回した部屋の様子に違和感を覚えた。
 まずベランダに敷布団と掛け布団が干されていた。千迅の寝室はベッドなので、基本的に敷布団は用いない。次にお茶を淹れている千迅に目を向けると、シンク横の水切りにはグラスが二つ、平皿が二つ、茶碗が二つ伏せられている。さらによく見ると台所にはビールの空き缶が複数あり、空になったワインボトルがきれいに洗われて置いてある。
「千迅さん。誰か来ましたか。」
 凜一の顔は険しくなる。誰が来たのか。千迅とはどんな関係の人なのか。お互いに仕事があるため仕方がないとはいえ、凜一が三週間も会うのを我慢している間に千迅が誰かを泊めている。それも凜一が県外出張に留守をしてるときに。凜一は胸のはあっという間に黒く染まっていく。
「ああ。黎一だよ。都内で学会があるから泊めろと連絡あったんだ。俺も有休が溜まっていたから、久々に休みを取って泊めてやったんだよ。」
「江島さん……ですか。」
 凜一は五年前に竹雄で会った江島のことを思い出していた。千迅の高校時代の二つ上の先輩で大学も同じK大だ。在学中は千迅と二人旅に出るほど親しく、大学を卒業して十数年が経つ今も電話や葉書のやり取りをしながら友人関係が続いていることを凜一も知っていた。
 医師である江島が学会に参加するために上京してくることは何ら不思議ではない。千迅も事もなげなく云うので疚しいことはないのだろう。そもそも千迅にも交友関係はある。気心の知れたひとを自宅に泊めることがあることぐらい凜一も承知している。承知しているが、泊めた相手がよりにもよって江島だったことで、凜一の機嫌は一層悪くなった。
「ぼくがいないときに……、」
 台所でお茶を淹れていた千迅が凜一の異変に気付いて顏を上げる。
「急にどうしたんだ。あいつとは晩飯を喰って酒を飲んで雑魚寝しただけだぜ。」
「……そんなのわからないぢゃないですか。」
 これはただの言いがかりだ。やめなくてはいけない。そうわかっていても凜一は止めることができなかった。久々に会うことができたのに、口が勝手に千迅を咎める。
「あいつには配偶者も子どももいるのはおまえだって知っているだろう。おまえが勘ぐるようなことは何もないぜ。」
 千迅は呆れたように云うが、それが軽く躱されたようで凜一はまた腹が立った。
「だって、ぼくがいないときに別の男のひとを泊めるなんて、そんなのおかしいぢゃないですか、」
「……やけに絡むな。何が云いたいんだよ。」
凜一の云い方に千迅の顏が険しくなる。声こそ平静だが、気分を害したことは明らかだった。凜一は俯いて口を閉ざす。黙ってしまった凜一に千迅は溜息をつく。
「おい凜一。何が気に入らないんだ。云いたいことがあるならはっきり云え。」
 千迅は台所のシンクにもたれて凜一の云い分を待つ。まるで断頭台の上に立たされているようだった。千迅に誤魔化しは通用しない。凜一は意を決して口を開く。
「……だって、江島さんは千迅さんが昔好きだったひとぢゃないですか。」
 もしかして今も好きなんぢゃないですか、とは続けられなかった。千迅のことを好きになった凜一にとって、千迅と江島の関係は小さな棘だった。
 千迅は学生時代、江島との諍いをきっかけに、在籍していた医学部から理学部へ転部したという。そこにはふたりにしか解らない縺れた感情があり、例え数十年前の出来事だとしても、凜一は冷静でいられなかった。
「……俺が今付き合っているのはおまえのはずだが、」
 千迅の声に感情の在処は見つからない。情けなくなった凜一は、まとまりがつかないまま抑えられない胸の裡を吐露する。
「だって……久々に千迅さんに逢えたのに、千迅さんはいつもと変わらないし、ぼくはずっと逢いたいのを我慢していたのに、千迅さんは全然そんなことなかったみたいだし、しかもぼくには云わずに江島さんを泊めているし……。ぼくだって本当に何もないって解っていますけど、これぢゃぼくばっかり千迅さんのこと好きみたい……で、」
 千迅の圧に凜一は泪目になって言い訳にもならないことを並べ立てていたが、最後に出かけた自身の言葉で顔を赤くした。その後の言葉を続けられず固まっていた凜一が千迅の方にちらりと見遣ると、千迅は人の悪い顔をして笑っていた。凜一は失敗したことを悟った。
「云いたいことは全部云ってみたらどうだ。聞いてやるから、云ってみろ。」
 台所から移動してきた千迅に、後ろから抱きすくめられた凜一に逃げ場はない。完全に凜一の反応を面白がっている。
「そういうところがずるいんです……。」
 凜一は俯いて唇を噛む。凜一の首筋には千迅の顔が埋められて、くすぐったい刺激が与えられる。白状するまで離してもらえそうにない。
「……まるでぼくばかり、千迅さんのことを好きみたいぢゃないですか……。」
 凜一が消え入りそうな声でようやく云い切ると、千迅に強く抱きしめられた。
「俺はおまえが千尋のことを好きで、氷川くんと付き合っていたことも知っているが……、」
 そう云いながら千迅は凜一の首筋に唇を這わせ、耳の裏側を食み、耳介を撫で、胸を弄る。子どもを揶揄うような触れ合いから、腰の奥が疼くような刺激に変えられて凜一の睛には泪が滲む。
「俺が教えた覚えのないところで感じるよなおまえ。俺は誰に嫉妬するすればいいんだ。」
 耳元から与えられる快感に堪らなくなった凜一は、身動ぎして正面から千迅に抱き着く。気持ちのまま強く抱きしめると、凜一はそのまま持ち上げられて寝室に連れて行かれる。
「誰が逢えなくても平気だったって、」
 掠れた声に色が滲む。吐息に熱が籠もっているのは気のせいではない。
「おまえがどれぐらい俺を好きなのか、教えてくれるんだよな。」
 ベッドがふたり分の重さに軋みを上げる。明るい陽射しが差し込む昼間にひどく背徳的な千迅を前にして、凜一は観念して千迅の躰を抱き寄せた。