栗色の髪が日射しに透けてきらきらと光った。真綿のようにふわふわとした手触りも心地よい。まるで日だまりでにうたた寝をしたときのような、甘やかな幸福がそこには詰まっていた。
◇
さざ波の音が当たり前に繰り返される土地だった。幼少の頃よりここで育てば、それは当たり前の日常の音で耳に障ることもない。明けても暮れてもその音は絶えることなく生活の中に溶け込んでいる。
千迅は海岸沿いを自転車で走っていた。高校は一学期のテスト期間に入り、午前中で学校が終わる。この日は三科目のテストを受けた帰りだった。
千迅の自宅は山際にある。車一台分の狭い幅の緩い上り坂をあがると、簡素な平屋の家が見えてくる。生垣で敷地を囲い、正面には装飾のない数寄屋門が据えられている。 馴れた坂道を息を切らすことなく上った千迅は、格子の戸を引くと自転車ごと中に入り、玄関横に停める。家の鍵を開ける前に門の脇に設置されたポストを覗くと、見馴れた手の手紙が投函されていた。千迅は小さく溜息をついた。
誰もいない家に入ると、居間の窓を開け放つ。籠もっていた熱気が風に吹かれて動き出し、軒下の風鈴が鳴る。亡くなった母が夏祭りで購ったものだという。 千迅は冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぐとそれを一気に呷り、空になったコップにもう一度麦茶を注いだ。食卓に移動して届いた手紙の封を切る。 御殿山からの手紙だった。十四の子どもが書くには充分過ぎる能書で、千迅の名前が宛名書きされている。千迅は送られてきた便箋二枚にじっと睛を通した。
汗を吸わないカッターシャツは肌に張り付いて離れない。手紙を読み終えた千迅はシャワーを浴びて着替えると、自室で御殿山で暮らす異母弟に返事を書いた。
◇
その日は養父が残業で遅くなる日だった。千迅はひとりの夕飯を済ませ、父親の分を取り分けて食卓にカバーを掛けて置いておく。食器を洗い、水回りの片付けが終わった頃、電話が鳴った。千迅が受話器を上げて、はい、と云った後に続けようとしたことばは電話の相手に奪われる。
「千迅。なんで来ないんだよ。」
名乗るよりも早く云いたいことが先に口に出るのは、思考よりも感情が先走る異母弟らしかった。おそらく千迅が先日投函した返事を読んですぐに電話を掛けてきたのだろう。受け取った文面を読んでから間を置かない興奮が溢れていた。千迅は苦笑する。
「まずはちゃんと名乗れ。俺ぢゃなかったらどうするつもりだったんだ。」
「俺が千迅の声を聞き間違えるわけないだろう。それよりどういうことだよ。なんで夏休みに来ないんだよ。」
千尋は千迅の指摘を意に介さず話を戻す。千迅は千尋から送られてきた手紙に、この夏は御殿山には行けそうにないと送っていた。
千迅は華道の古流流派である天海地流の次期家元の晟の直弟子で、その自宅兼稽古場が御殿山だった。千迅は地方に住んでいることから、学校が夏期休暇に入ると一週間から二週間程度上京して、晟から直接稽古をつけてもらうことが毎年の恒例行事になっていた。だが、今年の夏期休暇は学業を理由に既に上京を断っていた。
「学年ごと勉強合宿に連れて行かれるんだよ。補習もずっとあるしな。」
千迅は高校二年生だった。進学校のため夏休みも授業が進むことに加えて、学校に泊まり込んでの勉強合宿もあった。千迅はそれらの行事に煩わしさを感じないわけではなかったが、御殿山を訪ねない公の理由として重宝した。
「勉強合宿なんか出なくたって千迅は困らないだろう。行くのは止めて御殿山に来いよ。やっと千迅に逢えるって、愉しみにしていたんだぜ。」
云っていることは無茶だが、千尋の不満は無理もない。東京と竹雄に暮らすふたりが、唯一長く一緒にいられるのがこの夏期休暇の千迅の上京だった。
千尋は鎌倉の実家を出て、今は御殿山の原岡家に同居している。五年前、彼は小椋家がその庶子である千迅に下した処遇に激怒して生家を飛び出している。騒動の果てに姉の百合が婚家の原岡家でその身柄を引き受けることで、千尋の家出に一応の決着はついていた。婚家といっても原岡と小椋の母は幼友だちで、晟と百合と千尋もまた幼い頃からの知己だった。晟にとっても千尋は弟のような存在であり、それほど大きな摩擦が起こることなく千尋の居所は決定された。
その後、産後の肥立ちのよくなかった百合が早くに亡くなるが、千尋はその後も遺された甥の凜一の兄役として原岡家に留まっていた。
「そういうわけにもいかないだろう。悪いな。」
「どうしても来られないのか。毎日学校に行かないといけないわけぢゃないだろう。」
「おまえだって盆から後は凜一を連れて鎌倉に帰るんだろう。」
千迅は事前に晟から聞いていた千尋の予定を告げて、暗に逢えるタイミングはなかったのだと伝える。受話器の向こうでは唸る声がした。
五年前の家出騒動の直後は、両親とは一切口を利かず面会さえもしないという頑な態度を取っていた千尋だが、時が経つにつれて段々と態度を軟化させていた。わだかまりのすべてが溶けたわけではなかったが、両親との仲は少しずつ修復され始めていた。その契機は凜一だった。凜一は小椋家にとっても孫にあたる。千尋が中学に進学した頃から、小椋家に凜一を連れて行く役目は自然と千尋になっていた。
小椋の両親に思うところはあっても、凜一にとって祖父母であることは変わりないと、凜一を鎌倉へ連れて行く役目を果たすよう説得したのは晟だった。最初は晟も同伴して、凜一を祖父母に引き渡すだけのやり取りだったが、段々と晟は同伴する機会を減らし、鎌倉の方でも、幼い凜一だけが祖父母の家に滞在するよりも兄代わりの千尋も一緒にいた方が凜一が安心するだろうと、千尋の実兄である十時が説き伏せた。そのような流れから、この夏は久々に千尋が鎌倉の家に滞在することになっていた。
「また機会はあるだろう。まずは凜一の守りをしっかりするんだな。」
千迅は一通り千尋を宥めると、静かに受話器を置いた。どうにか千尋をかわすことができたため安堵の溜息が出る。
夜風が温くまとわりつく。外ではキンヒバリがリッリッリと涼やかな声で鳴いている。千迅はこのまま千尋に気づかれることなく、緩やかにこの関係が消えてしまうことを希んでいた。
◇
夏期休暇に入ってからも、千迅の日々は淡々と過ぎていった。当初の予定通り終業式を終えても続く授業に、三泊四日の勉強合宿済むと盆に入る。
盆は養父とふたりで母親の墓参りに向かった。菩提寺からは海を見渡せる。水平線の上には湧き上がる入道雲が傘を広げて海面と空の境を曖昧にしていた。寺で借りた手桶に水を汲んで、境内を歩く。千迅の養父は月命日には欠かさず妻の墓を参っていた。手向ける花は千迅が庭で手折ったものだ。もう随分と長い間その習慣を続けていて、千迅と養父のふたりが揃って墓を参るのは盆と彼岸だった。
養父が普段からまめに手入れをしているため、墓掃除にそう時間は掛からない。墓に供える花と云えば菊だが、父子はこの日も自宅の庭に咲いた撫子を持参していた。四季折々の花を挿してやりたいというのが、花を愛していた亡きひとへの養父の変わらない愛情の示し方だった。
墓石を磨き、区画に生える雑草を抜き、御影石の線香立ての固くなった砂を取り替える。その間父子は無言でそれぞれの作業に没頭する。養父は口数の多くないひとで、千迅は養父のその静けさを好んでいた。
千迅は墓石の前で新聞に包んで持ってきた撫子を広げる。養父が新しく汲んできた手桶の水の中に茎を沈めて、水切りで水揚げをする。水圧で茎の中の空気を押し出してやることで、水が茎の中を上がりやすくなる。僅かな気泡が桶の中に浮かんでは消えた。
「この夏は、原岡さんのところに行かなくてもよかったのか。」
養父がそのことをずっと気に掛けていたことを千迅も解っていた。
「……そういう年もあるさ。来年も難しいかもしれないけれど。」
千迅は手を動かしたまま答える。来年はいよいよ受験生だった。養父にはまだ伝えていないが、千迅は進学を考えていない。けれど学校は受験勉強を本格化させるだろう。学校には通わなくてはならない。
「花を止めるつもりなのか、」
「……そんなつもりぢゃないよ。本当に都合が合わなかっただけで、花は続けるさ。」
千迅の挿した撫子は空を仰ぐ。濃い桃色の花弁がこぼれんばかりに開いて潮風に揺れた。
「……おまえには欲がないからな。」
養父のつぶやきが何を意味していたのかは解らない。養父もそれっきりことばを続けることなく、墓前に手を合わせる。
欲がないのはどちらだと、千迅は思う。妻の連れ子を息子とし、実子をもうけることもなければ再婚をすることもなくここまで通してきた。ここに至るまで、養父には幾度も再婚の話が舞い込んだ。死別で妻を亡くした男やもめであっても、技術者として手堅い勤め人である養父は、田舎の海辺町では貴重な縁談相手としてもてはやされた。その際、再婚の障りになる千迅は母方の親戚に預ければよいと気軽く口にする者もいた。その度に養父は、再婚も千迅を手放すことも丁重に断り続けてきた。
愛した人のあいしたものを、自らも愛する情の深いひとだった。千迅の母親が早くに亡くなってしまったため、養父は千迅の父親であることに人生の大半を注いできた。
「父さん。今日は日射しが強いから、あまりここにいたら躰に堪えるぜ。」
「……そうだな。帰りに氷でも食べて帰ろうか。好きだっただろう千迅。」
「いくつのときの話をしているんだよ。」
千迅は思わず笑みをこぼした。千迅がもっと幼い頃は家でも氷を削って食べていた。母が夏蜜柑や桃を使って手作りしたシロップをかけて、父と縁側に腰掛けて食べた思い出が脳裏に浮かぶ。
「いつまでも小さい気がしていたが、もうすっかり私より大きくなったな。」
千迅の上背は養父より拳ひとつ分ほど高くなっていた。千迅は父が提げていた桶を取って先に歩き始める。
「坂の下の食堂が氷を始めていたはずだ。食べて帰ろうぜ。」
影を並べて父子は墓前を後にする。他人同士のふたりをつないでいた人が亡くなっても、ふたりの生活は今日まで続いていた。潮騒が風に紛れて届く。海は変わらず穏やかに凪いでいた。
◇
盆が明けてからの千迅の夏期休暇には、特段の用事はなかった。例年なら御殿山へ行くところだが、今年はその予定もない。部活動にも所属していない千迅は、短期のアルバイトをして過ごしていた。
その日は午前中から夕方まで、同級生の家が経営する海産物の加工場で働いていた。立ちっぱなしでの作業にさすがにくたびれていたが、自宅までの上り坂を自転車であがる。自転車からは軋む音がするが、構わずペダルを強く踏み込んだ。
道が平坦になったところで自宅の方に睛を遣ると、低い生垣から見える玄関先に、思いもよらなかった人物が座り込んでいて千迅は息を呑んだ。
「なにしているんだ千尋。」
慌てて声をあげる。呼ばれた人物は顏を上げて笑みを浮かべる。千迅は急いで自宅の門をくぐった。
「なんでここにいるんだ。来るなんて云ってなかっただろう。」
自転車を停めた千迅は、突然の千尋の訪問に何から問いただせばよいのか解らず、珍しく混乱していた。対して、ゆっくりと立ち上がった千尋は落ち着き払った様子で千迅に応える。
「おじさんには電話で云ったよ。千迅がこちらに来られないなら、俺が逢いに行けばいいんだって思って、鎌倉の滞在を少し早く切り上げたんだ。俺が電話をしたときはおじさんしかいなくて、訪ねてもいいかと聞いたら、お盆が明けてからの千迅は学校もなくて、アルバイトをしているから大丈夫だって聞いたんだ。」
「……俺は父さんから何も聞いていない。」
「吃驚させたいから黙っていて欲しいってお願いしたんだ。……ねえ千迅。学校はお盆の前までだったの。夏休みの後半は御殿山に来られたんぢゃないの。云ってくれれば俺、鎌倉に帰るのを短くして、千迅に逢えるようにできたよ。ねえ、どうして来なかったの、」
西日が千尋の顔を橙に染める。中学二年生になって、幼かった顔立ちも大人びてきていたが、声変わりをしていない柔らかな声がまだ子どものそれで、幼子が無条件に人を慕う曇りのないまなざしを千迅に向けた。
「……いつからここで待っていたんだ。」
「……二時間、……ぐらい……、」
「顏が疲れている。とりあえず中に入って涼め。」
玄関の鍵を開けた千迅は、千尋を招き入れて居間に連れて行く。
「親父や、晟先生にはここに来ることは云っているのか、」
千迅は冷蔵庫の麦茶をグラスに注ぎながら千尋に問う。
「……晟先生にはちゃんと云って来たよ。」
「少しは鎌倉も構ってやれ。あれで息子に反旗を翻されて気にしているんだぜ。」
「……千迅だって息子だろう。」
それには応えず、千迅はソファに千尋に麦茶を渡した。
「晟先生には無事に着いたと連絡をしろ。父さんは町内会の集まりに出ているから、多分今日は帰って来ない。おまえは明日ちゃんと御殿山に帰るんだぞ。」
簾を下ろして、千尋に扇風機の風を当ててやりながら千迅は食卓の椅子に腰をおろした。
「ねえ。俺が聞いたこと、まだ答えてもらってない。」
「……少しは休ませろよ。結局学校に通う夏休みだぜ。後半ぐらいゆっくりしたいだろう。」
「でもアルバイトには行っていたんだろう。千迅は晟先生の稽古より、アルバイトを優先させるの、」
「何が云いたいんだよ。云いたいことがあるならはっきり云え。」
千迅の強い口調に一瞬怯えたような顏をしたが、唇の端を震わせながらことばを続ける。
「千迅は、御殿山に来るのを避けているの。……それとも俺と逢うのを避けているの、」
千尋は顔を俯け、渡されたコップを握りしめる。ことばの最後は尻すぼみ薄闇に溶けた。千尋の不安が滲んでいた。
「……なんでそう思うんだよ、」
「最近は電話をしてもそっけないし、手紙の返信も前より遅いだろう。」
千尋の読みは正しい。けれどそれ以上に悟らせるつもりは千迅にはなかった。
「……こっちもそれなりに忙しいんだ。前のとおりにできないこともある。」
千迅はサイドボードに置いているマッチを取り出すと、縁側に置いている蚊遣りに火を点ける。白い烟が立ちのぼり、除中菊の匂いが広がった。
「あまり俺にこだわるな。」
千迅はそのまま縁側から庭に出た。水撒き用のホースを手に取ると、水栓をひねる。夕方の水遣りは千迅の日課だった。ホースの先を指で潰し粒状にした水を放射状に撒いていく。柾木の生垣や、そこに絡まる朝顔、横へ横へと広がっていく木槿や撫子の乾いた葉に水滴がしたたって瑞々しい。
「こだわるなってなんだよ、」
夕闇に影を落とす千迅の背中が、千尋にはことさらに遠く感じられた。衝動的に立ち上がった千尋は裸足のまま庭に下りると、その腕を掴んだ。
「こだわるに決まっているだろう。千迅は俺の兄弟ぢゃないか。」
「……本当なら逢うはずもなかったんだぜ。」
ホースから溢れる水が千尋と千迅の足元で染みのように広がっていく。千尋は腕の力を一層強くした。
「俺のことが厭いになった、」
「……そんなわけないだろう。」
「ぢゃあなんで避けるんだよ。」
「……おまえが悪いわけぢゃない。」
山際に落ちる夕日が濃い影を落としていく。遠くで鳴くヒグラシがもの悲しかった。
千尋と初めて逢ったのも夏のことだった。姉の後ろに隠れて、千迅が先にした挨拶に応えることもできないぐらいに人見知りをしていた。その癖いつまでも千迅を気にして様子をうかがっている。千迅は自分とはまるで違う千尋の栗色の髪が、日射しに透けてきらきらと輝くのに睛を惹かれた。やがて千尋が千迅のことを恥ずかしそうに、にいさんと呼んだ。面はゆかった千迅が応える代わりに頭を撫でててやると、その髪は真綿のようにふわふわとして心地がよかった。
「もう充分だろう。頃合いなんだよ。俺もおまえも、いつまでも子どもぢゃないんだから。」
千迅は千尋の手を振りほどくと水栓を止めに行った。砂と水で汚れた千尋の足を拭く雑巾を用意しようと踏み石に足を掛けたとき、背中に塊がぶつかった。
「好きだ千迅。」
背中越しに伝わる体温があまりに熱く、千迅の動きを奪う。千尋がそんな風に千迅に触れたのは初めてだった。
「千迅が好きだ。」
絞り出す声があまりに切実で、千迅の胸を乱す。千尋が見せる熱情は、誤魔化しようもなく兄弟の枠を越えて収まらない。けれど兄弟でないなら何なのか、まだその感情にふさわしい名前はつけられていない。名前がついてしまう前に、やめなくてはいけないと千迅は思った。
「……兄弟の抱擁ぢゃないなら離せ。」
「厭ならさっきみたいに振りほどけよ。」
「……わざわざ俺を選ぶな。男がいいなら、他にもいくらでもいるだろう。」
そのことばにかっとなった千尋は、千迅の前に回って彼の頬を平手で打つ。
「莫迦にするな。他の男の話なんかしていない。」
ぶたれた千迅はわざと薄く笑む。
「わざわざ面倒ごとに手を出すなと云っているんだ。兄弟なんだろう俺たちは。」
千迅は千尋のことばをなぞって返す。
「潮時なんだよ。そもそも親父が始めたことだ。いつまでもその道理に乗ってやることもないんだぜ。」
千迅は千尋をかわして室内に戻ると、濡らした雑巾を手にして彼の元へ戻る。
「こっちに来い。」
縁側に腰をおろした千迅は千尋を呼ぶ。呼ばれた千尋が渋々隣に座ると、千迅は腰を上げて千尋の前にひざまずく。千尋の足首を掴んで持ち上げると、雑巾で土埃をはたき、傷がつかないよう足指の間についた小石を落としてやった後、足裏を拭った。普段は養父が履く突っかけの上にきれいにした足を置くと、反対側の足も同じようにしてやる。千尋はされるがままだった。
「……俺が千迅を好きだと、駄目なのか、」
千尋は危うい、と千迅は思う。大人とも子どもともつかない顔をして、その先に何があるのかをも解らないまま千迅を求める。ただ好きだから。たったそれだけのことにすべてを賭けてしまえる危うさが、千迅に畏れを抱かせた。
「俺におまえは拒めない。」
千迅は立ち上がって千尋の髪を撫でた。初めて逢った頃を思い出す。その髪に触れることは変わらず千迅を幸福な気持ちにした。だから駄目なのだと思った。
「おまえが厭だと云ってくれれば、俺は安心しておまえの兄をやってやれたんだけどな。」
それはほとんど千迅の独り言だった。千尋に云ったつもりはなかったことだったけれど。
「……なよ、」
「なんだよ。」
聞き取れなかった千迅が問い返せば、燃えるような睛をした千尋が容赦なく叫ぶ。
「逃げるなよ千迅、」
云い放った千尋は、千迅の正面に回って確かな意思で千迅の躰を抱きしめる。たったさっき知ったばかりのその熱を、千尋は忘れることなどできなかった。
「先回りばかりするなよ。俺だって、考えた。おまえのこと。」
驚いた千迅は睛をしばたかせる。まるで牙を剥くように千迅に向かってくる千尋は初めてで、千迅は途惑った。
「千迅の考えていることが、全部解ってなんかいないと思うけれど、俺だった考えた。俺は小椋の家が千迅にしたことが許せなくて、父さんとも母さんとも話もしたくなくて家を出たけど、結局凜一を連れてのこのこ鎌倉に帰って、何しているんだって思ったよ。」
「……それでいいんだ。何も悪いことぢゃない。」
「全然よくない。俺は何もできなかったんだ。原岡の家の世話になって、学校だって御殿山で暮らすのだって、結局は父さんたちがいいと云ったからできてるんだ……。俺、千迅のためにできたこと、何もなかった。」
腫れた睛に泪を溜めた千尋の熱が、千迅に伝播する。千尋がそんな風に考えているとは千迅は思いもしなかった。
「今の俺は、結局小椋家に守られているだけのただの子どもで、自分のものなんて何も持ってなくて……。だから千迅にあげられるものなんて、千迅のことが好きだって云う、この気持ちしかないんだ。」
薄闇に浮かぶ滴が頬を伝って落ちる。千迅のためにこぼれる泪に、千迅の心は奪われる。
「……俺ごときに、そこまで心を砕く必要なんかないんだぜ。」
千迅の腕が千尋を抱擁する。庭先からは不意に雨の匂いが漂う。蒸れた空気が飽和して、しとしとと庭を濡らしたかと思えばあっという間に重く強い雨脚に変わって降り注ぐ。風鈴の短冊が風に煽られて激しく揺れるが、玲瓏な音は雨音に流される。
離れがたかった。ふたりとも。もっと深く相手を感じるにはどうすればいいのか解らず途惑い、ただ互いの躰の質量を感じて立ちすくんだ。ことばが沈黙を埋めることもなく、早鐘をうつ心臓をもてあました千尋が静かに千迅を見上げると、引き合うように千迅の唇が触れた。
「どうしよう千迅……、全然厭ぢゃない……、」
耳まで紅く染めた千尋が吐息をこぼすと、千迅の脳裏で何かかが音を立てて切れる。思考が弾け飛ぶ。千迅は衝動のまま再び千尋にキスをした。そうせずにはいられなかった。
千尋がこの行為をどこまで理解しているのか、千迅にはわからない。きっと半分も理解しないまま、躰の快楽を無批判に享受しているに違いなかった。けれどこうする以外にどうすればいいのかもまた、千迅には解らなかった。ただ離れがたくて、されるがままの千尋はいとけなくて、触れるだけでは足りなくて、その唇を食んで吸ってやると、腕の中の千尋が身悶えた。
「……これ以上したら、多分やめられないと思う……、」
千迅は千尋の首筋に顏埋めた。
「……なんでやめないといけないんだよ、」
「……おまえにひどいことをする。」
「ひどいことってなに。」
「……おまえが厭がるようなことだよ。」
はっきりしない千迅の云い方に千尋は焦れる。
「勝手に決めるなよ。千迅にされて厭なことなんて、俺、なにもないぜ、」
雷鳴がとどろく。千尋は怯みのない睛で千迅を見つめた。その熱にあてられた千迅は、息を呑むと衝動のままに千尋に手を伸ばす。
「厭なら突き飛ばせ、」
ぞっとするほど色を含んだ千迅の声に、千尋は芯よりも内側に火がつくのを感じた。
「んっ……、」
千迅は千尋のシャツの裾に手を差し入れて背骨をなぞる。千迅の冷たい手にそうされると、くすぐったく躰が疼くような感覚になり、千尋の喉の奥は千尋の意思とは関係なく勝手に鳴った。恥ずかしくてたまらないのにやめて欲しくなくて、相反する思いに翻弄される。
千迅は千尋の背を撫でながら、首筋に口づけてその肌を吸った。千尋は感じ入るようにゆっくりと頭を振る。鎖骨に軽く歯を立てると、びくりと躰を震わせた。やめられなかった。
躰を支えるものがなく、立ったまま貪られる千尋は次第に力が抜け、足元がおぼつかなくなる。千迅は千尋の腰を抱くと、ゆっくりとその体を床に横たえた。見下ろした千尋の顔はすっかりしどけなく濡れていて、千迅は自分の欲を自覚せずにはいられなかった。
「口、開けて……、」
それはまるで内緒事を打ち明けるときのような甘やかな声で、千尋の頭はくらりとする。 一方であどけなくもきこえたそのことばは、出逢ったばかりの頃の千迅を思い出させた。大人になるにつれて口が悪くなり不遜になった千迅が、あの頃のように幼いことばで千尋に乞うのがいじらしくて唇を開いた。
「んッ……っ、」
千迅は無防備に開かれた唇の中に、舌を差し入れる。逃げるでも隠れるでもなくそこにある千尋の舌は逃げ遅れた草食動物と同じで、千迅は緩慢に奪いにかかる。千尋が洩らした小さなつぶやきさえも平らげて絡める舌はおかしいぐらいに気持ちがよかった。
「ふ……っ、」
千尋も夢中になって千迅の息に合わせた。暑いのか熱いのか解らなかった。されることが、奪われることが、こんなにも快楽とつながっていると、千尋は知らなかった。
千尋に覆い被さる千迅は、身を起すと暑さと煩わしさからシャツを脱いだ。 千尋と千迅は幼い頃は一緒に風呂に入ったこともあるが、ここ数年はそれもない。久々に目にする千迅の躰はどこにも柔らかさが見当たらず、筋肉が発達し骨張っており、もうすっかり大人の男の躰をしていた。千尋の心拍はさらにせわしなく逸った。
「さわって……いいか、」
問われるとどうすればいいのか解らない。千尋は睛をうろうろと泳がせた後に、小さく頷いた。千迅は千尋の耳を撫でながら額にキスすると、前をくつろげる。
千迅は下着の中に手を差し入れると、固くなった千尋のそれを掌で覆う。千尋は自分以外の手にそこを触られたことはなかった。
「あぁ……、や、千迅……。だめ……変な声……、でる、」
親指で擦られただけで抑えきれない声がこぼれ出た。
「大丈夫だ千尋。変ぢゃない……。気持ちいいか、」
千迅の問いに千尋は喘ぎながらこくこくと頷く。腰が痺れておかしくなる。睛には泪が滲んだ。
「千尋、腰を上げて。」
千迅に促されて、千尋はそろそろと腰を上げた。白んだ頭ではなぜそう云われたのか考えることができない。千迅は千尋の頭を撫でると、下着ごとズボンを引き下ろした。
「あ……、やっ……、」
驚いた千尋は反射的に脚を閉じて恥じらう。
「それぢゃさわれないだろう。」
千迅は少し笑って千尋の脚を撫でた。千尋はその僅かな刺激にも反応して躰を震わせる。千尋は躊躇いながら腿の力を僅かに緩めた。自ら身を差し出すようで恥ずかしかった。
「いい子だ……千尋。」
千迅は千尋の耳元で云うと、そのまま耳朶を食む。ぞくぞくとした興奮が耳から千尋の躰全体に走った。千迅は千尋の耳孔に舌を差し入れると同時に、前をさわって千尋を追い詰める。
「ん……んふっ……んん、」
強い刺激に抑えきれない声が洩れる。
「我慢するな千尋……。よくなったらいい。」
誘惑的な耳打ちに千尋は首を振って抗うが、躰は与えられる快楽に素直に溺れる。
「だめ……だめ千迅……もう……、」
「なんでだめなんだ、」
「も……でちゃ……、ああ……やっ……、」
あっという間に限界が近づいた千尋は千迅に縋って泪をこぼす。千迅は上下させる手をさらに速めて千尋を限界に追い込んだ。
「出せばいい。大丈夫だから。」
千尋の先端からは先走りがあふれ出て卑猥な音を響かせていた。我慢することなどできず、千尋は千迅に導かれるまま精を放つ。息が荒れて躰中が脈打った。
「気持ちよかったか、」
千迅の問いかけに千尋は物憂げに頷く。あまりにも気持ちがよくてしばらく呆然としていた。
千迅は汚れていない方の手で千尋の頭を撫でると、立ち上がってローテーブルに置かれたティッシュで手を拭う。
「風呂に入るか。」
うんと千尋は頷きかけるが、待ってと制止する。
「千迅は……、どうするの……、」
千迅もまた、さきほどの千尋と同じように兆していることに千尋は気づく。顔を逸らした千迅は、ばつが悪そうに見えた。
「……俺は自分でどうにかするからいいんだよ……、」
「自分でって、そんなのだめだよ。俺がする。」
「莫迦。いいんだよ。妙なことに興味をもつな。」
「なんだよ……人のはさわっておいて、自分は厭だっていうのか、」
「……厭とかぢゃない。これ以上は本当に駄目だ。」
「なんで駄目なんだよ。」
「云っただろう。……おまえが厭がるようなことを、するかもしれない……。」
「さっきからひどいこととか、厭がるようなこととか、一体なんなんだよ。俺……、恥ずかしかったけど、厭なことなんてひとつもなかったよ。」
言いよどむ千迅が珍しかった。いつも端的で迷いのない異母兄がここまで口を濁す事柄がなんなのか、千尋の好奇心は掻き立てられる。引く気配のない千尋に、千迅は溜息をついた。
「……男と女がするときは、どうするか知っているか、」
「莫迦にするなよ。俺だってそれぐらい知っているぜ。」
「……男同士は、ここを使うんだよ。」
いやに云いきる千尋がどこまで解っているのか訝しく思いながらも、千迅は千尋の窄みに軽く触れた。千尋の理解はすぐには追いつかなかったようで始めはきょとんとしていたが、意味が呑みめた途端顏は真っ赤になる。
「え、嘘。そんなことができるの、」
「試したことはないけどな。」
そう云って千迅は話を切り上げる。余計なことを話した自覚があるだけに、千迅は早くこの話題から千尋の意識を逸らしたかった。
「ほら。莫迦なこと云っていないで風呂に入ってこい。沸かしてやるから。」
千迅は何事もない顏で風呂場に行こうとするが、千尋はその腕をとって引き留める。
「……ねえ。千迅のひどいことをするかもしれないって、俺とそういうことをしたいってこと、」
「……さっきの話は忘れろ。話し過ぎた。」
「……俺、千迅としたいな。」
まるで釣りに一緒に行くのをねだるように、もっと花を挿して欲しいとねだるように、そんな他愛のないお願いの延長線上にあることでしかないように、千尋は千迅を求める。
「千迅とできることなら、何だって一緒にしたい。」
引き留めるためにとった千迅の手を、千尋は自らの後ろに導いた。千迅は反射的に千尋の手から逃れる。千尋のその無防備な誘いに、千迅は怒りが湧いた。
「……抜いてやるぐらいのことなら、思春期の狂ったホルモンのせいだと、後々笑い話にもなる。おまえのそれも、分泌過多のホルモンが感情を欲望と勘違いさせているんだよ。どうしてもされたいと云うなら、相応の相手を選べ。」
「ぢゃあ千迅のそこがそうなっているのも、ホルモンによる勘違いなの。俺に感じてくれたわけぢゃないの。」
「あんな風に触れ合えば相手が誰でも躰は正直に反応するんだよ。ただの機能の問題だ。そこにくだらない情なんて介在しない。」
千尋の睛からは大粒の泪がこぼれ落ちた。庭を濡らす雨よりも、ずっと大きな粒がとめどなくあふれ出る。
「誰でもいいなら俺でもいいだろう。なんで駄目なんだよ。千迅こそ厭なら厭と云えよ。駄目ならキスなんかするな。触ったりなんかするな。千迅の莫迦。」
風雨にも掻き消されない声で千尋は千迅に躰を投げ出した。無防備に晒された首筋が、電灯をつけないまま闇に沈む室内に仄白く浮き上がる。
「おまえだから駄目なんだよ。」
闇は薄暗く底知れない。闇夜のようにすべてを覆ってしまえば不都合なものもなかったことにできる。それでいいと千迅は思っていた。消したいものそのものが消える必要は感じていなかった。あることが悟られなければ、それで。
「俺は男で、おまえとは半分血がつながっていて、本家の次男と妾の子だ。露見してみろ。何かいいことがあるか。そのときに後悔したって取り返しはつかないんだよ。全部おまえの枷にしかならないんだぜ。」
いつからだろう。千迅が不意にぼんやりするようになったことに、千尋は気づいていた。もちろん千尋と一緒にいるときのことではない。ほんの少し千尋が席を外したとき、待ち合わせで遠目に千迅を見つけたとき、千尋の知らない顔をする千迅がいて、何を考えているのかは少しも解らなくて、千尋の胸は不安でざわついた。
「おまえのことが厭だと。そんなわけがあるか。おまえだから駄目なんだよ。」
それを聞いた千尋はたまらなくなってキスをする。特別だと云われている。それが解らないほど千尋も鈍くはなかった。歳を追うごとに物事に拘泥しなくなった千迅が、頑なに駄目だと繰り返すそれだけで、もう千尋には充分だった。
「俺、千迅が兄弟でも、まったくの他人でも、出逢えば絶対好きになったよ。してよ……。俺は、おまえとしない方が、ずっと後悔する。」
「……おまえは莫迦だよ。」
千迅はソファに千尋を押し倒すとキスをする。今日だけで何回したかも解らない。千迅が畏れて遠ざけようとしたその触れあいは、まるでひだまりでするうたた寝のように、甘やかな幸福が満ちていた。