道行き

※晟先生の死後の異母兄弟です。千尋さんが神経衰弱になり、千迅さんと出た逃避旅行のお話。

 

 

「それなら―、」
 千迅が弱音をこぼしたのは、後にも先にもこのとき一度きりだった。

  ◇

 ふっと睛が醒めたとき、辺りは暗闇に覆われていた。暗闇に慣れない睛は何も映さない。ただ、嗅ぎなれない藺草の匂いが鼻を掠めて、ここが鎌倉の実家でも京都の下宿先もないことが朧げに解った。
 頭が鈍く痛む。瞼は重く、起き上がるのは億劫だった。僅かに開けた睛だけでぼんやりと闇を眺めたとき、俯せに寝ている自分の腕が枕元に向かって伸びていることに気づいた。
 ああ、腕がある。そんな当たり前のことになぜか感心するちぐはぐな思考のままその腕を辿ると、墨を流したような黒夜に紅い紐が浮かび上がる。それは千尋の手首に括られていた。千尋は息を呑んだ。
「起きたのか……、」
 闇の向こうで聴き慣れた声がした。だが誰かはわからない。返事をしようにも、千尋の喉は掠れて言葉にならなかった。
「眠ったのは久しぶりだろう。よく寝ろ。夢も見ないぐらい、おまえは疲れているはずだ。」
 その声にそう諭されれば、きっとそうなのだろうと思った。懐かしいような、低く、艶のある声。だが違うと思った。違うそうじゃない。それじゃないと頭の先から爪先までが戦慄いた。千尋の睛からはぼろぼろと泪がこぼれた。なぜ泪が溢れるのかもわからなかった。
 雲が動いたのだろう。障子を開け放ち剥き出しになった窓からは、少しずつ月の光が差し込み闇の領分をほんの少し掠めとる。
 息ができないぐらいに苦しい。まるで水の中にいるようだった。あの月光の縁まで泳ぐことができれば、きっと呼吸を取り戻せるに違いない。そう思った千尋は、僅かに腕を伸ばし、爪先で月の光に触れた。
 温度もない。湿度もない。優しく名前を呼んでくれたあの声も、含羞んだように笑うあの顔も、そこには何もなかった。
「全部忘れて、眠ればいい。」
 どこにも行けないと思うのは腕に結ばれた紅い紐のせいなのだろうか。月光がしらじらと紐の先を照らし出す。その先が何に繋がっているのか知っている気がしたけれど、思い出せなかった。繋がれたかったのはきっと、それではなくて。
「あきら、せんせい……、」
 それが誰の名前なのか、ぼんやりとした頭では見当もつかない。ひどく甘く、口に熟れた、一等好きな響き。ぼろぼろと泣きながらつぶやくと、紅い紐を巻いた手が、千尋の頭を優しく撫でる。労わるような手つきに深い安堵を覚えるが、額に触れた指がひどく冷たくて、ああそれじゃない。やっぱりそれじゃないと、千尋の睛からは一層泪が溢れた。
「忘れ方がわからない……。」
 千尋の口からは幼子のようなつぶやきがこぼれ落ちていた。ここには欲しいものも恋しいものも何もない。どこに行けばあるのだろうか。靄がかかった頭では何も考えられなかった。
「それなら―、」
 闇の向こうで何かが囁いた。けれどそこから先のことを思い出せない。その言葉に頷いたのか、首を振ったのか、千尋は覚えていない。眠りに落ちて選べなかったのではないかと思う。

  ◇

 朝焼けの海辺にはふたり以外、人の姿は見当たらない。潮騒は昼夜を問わず穏やかに満ちる。紅い紐に繋がれたあの夜をどう越えたのか、千尋はよく覚えていない。気づけば病院のベッドの上で、あの紐はどこにもなく、誰とも繋がっていない手首が千尋の肩からぶら下がるばかりだった。
 晩夏のひとときに龍安寺を詣でた後、千尋と千迅は同じ夜を過ごして暗黙の情事に耽る。それに何の意味があるのか、少なくとも千迅にとっては愚にも付かないだろうこの行為を続けているのは、きっとあの一晩の縁が、ふたりを分かち難くしているからだろう。

『それなら、死んでやろうか一緒に。』

 波の音。繰り返される騒めき。遠い記憶の底から浮かび上がる声。朝日よりも紅い血の色をした紐がふたりを繋いでいたあの夜。
「なあ千迅。あのとき、俺が頷けば一緒に死んでくれたのか、」
 掌で風を除けながら煙草に火を点ける千迅は、すぐには答えず煙草の烟を海風に遊ばせる。目覚めの早い海鳥の声が高く響く。波の音が満たす静謐を鋭く切り裂いて、夢の終わりを告げるようだった。
「さあな。忘れた。」
 忘れ方がわからないと泣いた異母弟に、らしくもない誘惑を持ちかけた千迅もまた、何かに疲弊していたのかもしれないと千尋が気づいたのは、随分後になってからのことだった。
 何でもない顔をして煙草を喫む千迅は、もうその傷に触れさせてはくれない。闇が明けるたびに、あの夜が恋しくなって千尋の胸は痛む。それが刹那の感傷であっても、あのとき頷いていれば、この異母兄を手に入れて、愛おしい人に逢いに行けたのではないかと思うのだ。