深夜二時。原岡家の裏口は約束通り開いていた。蝶番の軋む音にも注意を払って、千迅はその戸をそっと押し開ける。邸内は水を打ったように静まり返っていた。誰も彼もが息を忘れて悲嘆に暮れ、泣き疲れて眠っていることが容易に想像される夜だった。
千迅はそっと邸内に侵入すると、素早く鍵を掛け直して薄暗い廊下を進んだ。かつて何度となく通った屋敷内を進む足取りに迷いは無い。廊下の角を曲がった先が仏間であり、そこに亡骸となった師が帰って来ているはずだった。
だが、仏間の明かりは消えていた。代わりに淡い蝋燭の明かりが障子に滲み、線香の香りが漂う。千迅は膝を折って廊下に端座すると、手を三度変えて障子を開けた。
「……大丈夫か、おまえ。」
障子を開けた千迅は、弔いの言葉よりも先にそう呟いていた。千迅をこの時間に呼び寄せた張本人であるはずの異母弟が、師の枕元で力なく項垂れていた。
「俺の声が聴こえているか、千尋。」
千迅は一向に反応を返さない千尋の傍ににじり寄って声を掛ける。仏壇の前に敷かれた布団には、白い布で顔を覆われた師が横たえられている。その傍らに控える千尋に生気はなく、障子に映る影ばかりが大きくまるで骸がふたつ折り重なっているようだった。
『晟先生が亡くなった。』
京都の千迅の下宿に、千尋からそう連絡あったのは昼過ぎのことだった。突然の訃報に千迅は声を失った。千迅と同じく京都の下宿から電話を寄越した千尋は、ともかくこれから御殿山の原岡家に向かうと云い、千迅もすぐに上京することに決める。ふたりは京都駅で合流する算段をつける。
京都から東京に向かう車中で、千迅は御殿山で稽古をするときに常宿にしていたホテルに宿を取り、東京滞在中はそこに連絡するよう千尋に伝える。
東京駅に着くと、千尋は御殿山へ、千迅はホテルへと別れた。晟の逝去の場には小椋家も駆けつける。小椋家の庶子で、幼少の頃より関わりをもつことを許されていない千迅は、師の最期に立ち会うことさえ叶わない。
夕方になると再び千尋から連絡が入る。病院から自宅へ晟の躰が戻されたという。
『寝ずの番を引き受けることになったから、夜中に来るといい。裏口の鍵を開けておく。』
このときの千尋の声は悄然としてはいたが気丈で、公に師の通夜にも葬儀にも参列することができない千迅を気遣う余裕さえあった。
滞在するホテルで夜が更けるのを待った千迅は、時が来ると御殿山に向かった。まだその死を信じきれない師を弔うために駆け付けたのだ。
しかし千迅がその夜に見たのは、亡き人と共に旅立ちかねない異母弟の姿だった。家中が寝静まり誰の睛もなくなったとき、千尋は正気を取り繕うことをやめたのだろう。
「千尋。大丈夫か。」
再度の問いかけにも千尋は反応を示さない。焦った千迅がその顔を覗き込むと、千尋は音も立てず泪を流していた。拭うこともしないその様子から、泪が流れていることにさえ気が付いていないように思われた。
「千尋。こっちを見ろ。」
千迅は千尋の肩を掴むと強引に躰の向きを変える。力のない躰は抵抗なくその動きに従った。それは魂のない骸と同じだった。
「おまえまで晟先生と同じところに行くつもりか。俺を見ろ。」
「あきら……せんせい……、」
千迅が口にしたその名前に、千尋は微かに反応を示す。とめどなく溢れる泪が千尋の頬を伝って、千迅の手の甲に落ちる。光のない睛が千迅を見つめ返していた。
「晟先生はまだそこにいらっしゃるだろう。睛を逸らすな。千尋。」
ゆらりと炎が揺れた。千尋の睛に千迅が映る。千尋に自我が戻っていた。
「ちはや……、」
今ようやく異母兄が傍にいることに気付いたようにその名を呼んだ千尋は、睛の前の肩口に顔を埋めると嗚咽を洩らした。千迅はその背に腕を回して抱擁する。薄いシャツ越しに触れる背は細かく震え、死とは真逆に温かかった。
どれぐらいの時間、ふたりでそうして過ごしたかわからない。千尋が千迅から離れようとしなかったため、千迅はその躰を抱き留めていた。
やがて線香は燃え尽き、炎は蝋を溶かし切る。訪れたのは漆黒よりもなお深い夜の帳で、闇に捕らわれた千尋はようやく人の言葉で呟きを洩らす。
「線香と蝋燭は、故人が迷わずあの世に逝けるように絶やしてはならないんだろう。だったら、このまま蝋燭も線香もあげなければ、晟先生はここにいてくれるのか。俺の傍にいてくださるのか……、」
どうして……。千尋の慟哭は責めるように、悔いるように響いて、千迅の腕を強く掴んで離さなかった。千迅はその強ばった手に自身の手を重ねて包んでやった。いつもは温かい手が、まるで死人のように冷たかった。
千迅は夜の底に取り残された異母弟が哀れで、ただ傍に付き添って、止めどなく溢れるその泪を拭ってやった。