※千迅さんの実父の小椋氏と養父の英氏のお話です。お話の展開上、英氏は栖二(せいじ)、小椋氏は壱彦(かずひこ)、千迅さんのお母さんは葉月としています。もしかして親世代はこんな関係だったのでは……という妄想です。
「ハオチル」
知らせないわけにはいかなかった。だが、姓を名乗ってあちらの家族に波風を立てることも本位ではなかった。だから姓は名乗らずにただ「セイシ」と記して電報を送った。風が冷たく鋭くなり始めた秋のことだった。
あの日以来、あの男とは逢っていない。当然だ。家同士でそう取り決めたのだから、それを守らない道理はない。けれどこの訃報には、訃報だからこそ、少なくとも子を成す程度には情交わした相手なのだから、この電報に応えて何か反応があるものと、栖二は無意識に信じていた。
しかし通夜にも葬儀にも初七日にも四十九日にも、遂にあの男は現れなかった。香典はおろか、電報のひとつさえも寄越さないのは流石に薄情が過ぎるのではないかとふつふつと怒りが込み上げてきた頃、何の前触れもなくあの男は現れた。季節は移ろい早春だった。
「久しいな」
記憶と寸分も違わない声がそう云った。不義理を繕うこともなく、ごく普通の顔をして英家の玄関先に立つ男は、四十路を迎えようとしているにも拘わらずあの頃と同じ艶やかな立ち姿をしていて、栖二は一瞬時を忘れた。
「……今更、」
あまりにも突然の男の登場に、動揺した栖二はその先の言葉を続けられなかった。男はフェルトの中折れ帽を頭から外して胸元に納めると、栖二の睛をひたと見つめた。
「この度はご愁傷様でした。」
そのお悔やみは、男とはまるで無関係の他家の不幸を悼むような口調だったので、栖二は苛立った。男は首を傾けて栖二の顔を仰ぎ見る。甘えるような、企むような、その蠱惑的な仕草は学生時代に見慣れたものだった。
「葉月の訃報で『葉落ちる』とは、朴念仁にしては気が利いた表現だったな。」
栖二の妻を未だ我が物のように云うその傲慢さは、栖二の記憶する男そのものだった。
「いつまでここに立っていればいい。まさか弔問客を追い返すわけはないよな、英先輩。」
この男が栖二のことを「先輩」などと敬称を付けて呼ぶのは、ただの慇懃無礼だ。大学の後輩だった二歳年下のこの男は、いつでも栖二と呼び捨てにしていたのだ。
栖二は怒鳴りたい気持ちを堪えて玄関の戸を広く開けた。男は不敵に笑んで敷居を跨ぐ。およそ弔問客とは思われない艶然とした姿に、栖二は拳を固く握って怒りを自制する。
「まさかこんな寂れた町だとは思わなかったぜ。辛気くさい。何がよかったんだ。」
「おまえに理解して貰わなくても結構だよ。」
栖二がかつて暮らした東京や、この男の出生地である鎌倉と比べれば、竹雄は鄙の里に違いない。だが、どこにも帰ることのできなかった栖二達が「ここ」と決めて根を下ろしたのが竹雄だった。瀬戸内の静かな海が、幼子の手を引くふたりの心を慰めたのだ。
玄関を入ってすぐの部屋が仏間だ。予期しない来客のため、部屋は冷え切っている。仏壇には栖二の両親、兄、姉、そして弟妹が並んだモノクロの写真が置かれている。それは栖二が一人で上京して大学に通っていた頃、故郷から届いた家族写真だった。生家は家族もろとも空襲で焼けてなくなった。月日の流れを感じさせるその写真の横には、真新しいカラー写真が置かれている。葉桜の下で微笑む女性は、秋の冷たい風に攫われた栖二の妻だ。
男は袱紗から香典を取り出すと、仏壇に供える。消えていた蝋燭に火をつけ、線香にその火を移すと手で扇ぎ香炉に立てて両手を合わせた。
窓側の障子からは春の日射しが差し込み、室内を明るく照らし出す。閉ざした障子の向こうには海が広がっている。
「……苦しまずに逝ったのか、」
「薬で痛みを管理してもらっていたんだ。最期は穏やかだった。」
栖二はそっと睛を伏せた。この部屋だけでなく、英の家は全体的にしんとしていた。土曜日の午後だった。
「千迅は、」
男の口からは、いとも自然にその名前が滑り出る。淀むことない口調は普段から呼び慣れている親のそれで、栖二は膝を強く握った。
「……友達のところに遊びに行っている。」
千迅は昼食をとるとすぐに近所の子どもの家に遊びに行っていた。栖二は千迅の不在に安堵していた。
三歳で別れたきりのこの男のことを、七歳になった千迅が今でも覚えているのか、栖二は確かめたことがない。何よりこの男が母子の世話をしていた頃も、彼等の元を頻繁に訪ねていたわけではないと聞いていた。栖二としては、男の千迅に対する情の所在が不明なまま、ふたりを逢わせるつもりは毛頭なかった。
「顔のひとつも見てやろうかと思ったんだが、それは残念だな。」
そんな栖二の想いとは裏腹に、男は実に気安く血を分けた子どもに逢おうとする。栖二は長く息を吐いて気を鎮める。
「どうして今更来たんだ。知らせの意味が解らなかったわけではないのだろう。悼む気持ちが少しでもあるなら、もっと早く来られたんぢゃないのか。」
栖二は男を責めた。栖二が千迅の母である葉月と結婚し千迅を引き取ることを取り決めたあの日、小椋家とは今後一切の交渉を持たないことを家同士の取り決めとして書面にも残していた。だから、訃報の報せを送っても男からの音沙汰無いのは当然なのだ。お門違いの怒りだと頭の片隅で解っていても、栖二は云わずにはいられなかった。だが恨み言をぶつけられた男はなぜか薄く微笑んで、栖二の方へ躰を向ける。
「千尋の手がもう少し掛からなくなったら、百合と千尋に千迅を逢わせる。」
男は、千迅の異母姉弟にあたる小椋家の長女と次男に、千迅を引き逢わせると云う。栖二が想像もしないことを平気で口にする、その常識に縛られない無縫の行いに、栖二は学生時代に幾度となく振り回され、困らされ、魅了されてきた。今日のこの突拍子もない発言も、呆れる一方で容易く切り捨てることができずにいた。
「母親が亡くなり、次におまえがいなくなれば、あれには兄弟も親戚もないだろう。寄る辺があってもいいんぢゃないのか。」
言葉だけをなぞれば、子の行く末を思い遣る父の情愛そのものだが、栖二にはこの男にそんな殊勝な心掛けがあるとは思えない。警戒する気持ちが高まる一方で、戦争によって天涯孤独となっていた栖二の痛いところを突いてもいた。ふたりの間には沈黙が横たわる。
「……あれは、おまえと似ているのか、」
男がぽつりと呟く。栖二はその質問の意図を計りかねたが、自分の息子となって三年になる千迅のことを思い浮かべた。
千迅の容姿は誰がどう見ても母親似で、睛の前の男の容貌から受け継いでいるところはほとんど見当たらない。しかし、頭の回転が速く、聡く物事を捉える思考は血縁上の父親譲りのように思われた。だが栖二がエンジニアをしているせいか、物語よりも図鑑を好み、工作を楽しむ資質が育ちつつあった。最近では母親の遺した庭を栖二とふたりで手入れすることで、花を挿すだけではなく育てることにも一層の興味を持っている。
「……趣味や嗜好は似て来ているかもしれないな。何せ一緒に暮らしているから。」
それが男の求める答えなのか栖二には解らない。栖二が男に目線を戻すと、彼は愉悦を湛えた笑みを浮かべて栖二をじっと見ていた。
「俺はずっとこのときを待っていたよ。おまえと逢うための枷がなくなるこの日を。」
栖二の背にはぞくりと震えが走る。何か大きな間違いを犯しことに気づくが、それが何なのかは解らない。
「名前を呼べよ、栖二」
「……壱彦……、」
乞われるままにこぼれ落ちる男の名前。唇に載せるのは数年ぶりだ。その答えに満足したように、小椋壱彦は花が綻ぶように微笑んだ。