キス、初めての

 ※千迅さん中2、千尋さん小5の初めてするキスのお話です。

 

 離れて暮らす兄がいる。兄は海辺の町で兄の父とふたりで暮らしている。海辺の町は子どもだけでは行くことのできない遠い町なので、千尋が兄に逢えるのは学校の長期休暇のときだけだった。
 兄は寄せては返す波のような人だった。足元までにじり寄って来たかと思うと、次の瞬間にはさっと引いて手の届かないところに遠ざかっていく。季節が変わる度に兄は大人びて見えた。兄に逢えることはうれしかったが、逢う度に知らない兄の姿が増えていくことは堪らなく厭だった。兄のことを全部知りたかった。

  ◇

「ねえ、千迅はキスってしたことがある、」
 千尋は傍らで本を読んでいる異母兄に訊ねてみた。開け放した窓からは微かに潮の匂いがする生温い風が吹く。千迅は一瞬動きを止めた後、本から顔を上げて怪訝な顔で千尋を見つめた。
「なんだよ突然。」
 夏休みのほんの三日間、千尋は父親に連れられて竹雄の英家に泊まりに来ていた。父子の秘密の旅だった。千尋の父親は元来の自由人の気質で、千尋を英家に預けると自らの知人や小椋家の縁者に逢うため姿を消し、帰る日に千尋を迎えに来るのが常だった。千迅の父親は仕事で夜になるまで帰らない。つまり英の家には、中学二年生になった異母兄の千迅と小学五年生になった異母弟の千尋のふたりきりだった。
「都会の子どもは随分とませているんだな、」
 千迅の少し掠れた声が、千尋の肌をチリチリと焼いた。
 八か月ぶりに逢った異母兄はまた一段と背が伸びており、掠れた声は変声期の兆しだと教えられた。千尋の知らないところで、また千迅が大人になっていく。それは千尋の胸をざわつかせるには十分な出来事だった。
「俺、千迅が誰かにキスしたり触ったりするの、厭だ。」
 千尋は口を固く結んで云い張った。千尋と千迅は共に暮らすこともできなければ、同じ学校に通うこともできない。放課後に遊ぶことも、同じ習いごとに通うことさえも叶わない。兄弟としても、友達としても、何ひとつ同じであることができないならば、自分だけが知っている千迅を手に入れたい。千尋は我儘にも似た思いで千迅のことを他の誰にも渡したくないと思っていた。
「千迅の初めては、俺がいい。」
 千尋が自身のことを「俺」と自称し始めたのも、中学に上がった頃の千迅がなんでもないような顔をして「俺」と自称していたからだ。たったそれだけのことでも千迅が随分大人になってしまったような気がして千尋は焦った。千尋は、自分の知らないところで千迅が知らない人のようになっていくのが我慢できなかった。
「おかしなヤツだな。」
 突拍子もないことを云い出した異母弟に、珍しく千迅は困惑しているようだった。
 その隙を突いて千尋は千迅にじり寄る。波が引いていくなら、引けないところまで追いつめるだけだった。風が吹くたびに軒下の風鈴は冷たい音を響かせる。千尋の熱は冷めることなく千迅に向けられる。
 千迅の睛は千尋の真意を見定めるように彷徨った後、どうもこの異母弟が冗談や軽口で口にしているわけではないらしいと了解したのか、ふっと緩んで苦笑を浮かべた。
「おまえ、それは俺が既に誰かと済ませているという可能性については検討したのか。」
「え、千迅、キスしたことあるのか、」
「都会よりも田舎の方が進んでいることだってあるんだぜ。」
「そんな、嘘だろう。いつ、誰とだよ。そんな、」
 意味深に口角を上げた千迅に、千尋は焦って言葉を並べ立てる。あたふたと慌てて混乱する頭が三歳の年の差を恨めしく思い始めた頃、その様子を黙って見ていた千迅が、堪えられなくなったかのように声を上げて笑った。千尋はその笑い声に暫く呆然としたが、座卓に肘を付けて滅多にない大笑いする千迅に、まもなく自分が揶揄われたのだと合点がいった。
「おい千迅……、」
 顔を赤くしながら文句のひとつでも云ってやろうと千尋が口を開きかけたとき、千迅の人差し指が千尋の唇を優しく塞いだ。
「良かったな。今ならその初めてってヤツをお前のものに出来るぜ。」
 そう云い終えると千迅の指がゆっくりと千尋の唇から離れていく。
 途端に千尋の鼓動は速度を上げて耳元で強く脈を打ち始め、手にはじっとりと汗が湧く。千迅は顔を傾けてどうするんだと睛で問いかけてくる。
 千尋は床に手を付けたまま、身を乗り出して恐る恐る千迅の唇に触れた。ぎゅっと睛を瞑って触れたそこは柔らかくて、途方もなくどきどきした。鼻先を掠める千迅の匂いがわけもなく千尋の胸を締め付ける。千迅に触れていたのは一秒にも満たない短い時間だったが、千尋には永遠にも思われた。
 千尋がそっと唇を離して忘れていた呼吸を取り戻していると、何かを考え込む異母兄の顔が睛に入る。尾を引いて響く風鈴の音が途切れたとき、千迅が口を開いた。
「千尋。おまえ口開けて、舌出してみろ。」
 初めてのキスの余韻に浸っていた千尋はその言葉の要領を得なかったが、ふわふわした気持ちのまま云われた通り唇を開いて舌を差し出した。すると千尋の躰は腰ごと抱き寄せられ、気づけば舌を食まれていた。千尋の睛に火花が散った。
「ん……っ、」
 出したことのないような声が千尋の喉の奥で鳴る。咄嗟に逃げ出そうともがいても背中にも回された腕がそれを許さない。互いの胸はぴたりと張り付いて、鼓動は爆発しそうな速度で鳴っていた。
 千尋は状況の理解ができないまま驚いて舌を縮こまらせていたが、まるで怖がる弟の頭を優しく撫でるように、千迅の舌は優しく迎えに行って愛撫する。ざらついた舌同士が溶け合うように、千迅はゆっくりと絡めて千尋の緊張を解いていった。
「あ……っ、ん……、」 
 千尋の躰から力が抜けていくと、千迅の舌は千尋の咥内で自由に振る舞い始める。これまで誰にも触れられたことのないような口蓋や歯列の裏をなぞられると、千尋の背骨には感じたことのないようなぞわぞわとした感覚が走った。背はしなり、口の端から唾液がこぼれても千迅は触れることをやめず、千尋は振り落とされないように必死にその首筋に縋って声を洩らす。
「気持ちいいだろう……、」
 まるで千尋の躰に走る刺激を云い当てるように、千迅が呼吸の合間に囁きかける。次第に千尋の頭は靄がかかったようにぼんやりとし、千迅の言葉をなぞるように気持ちいいという思いだけが脳裏を埋め尽くした。
 いくらかの時間が経った後に互いの唇が離れると、睛に泪を溜めた千尋が千迅を咎めるように見遣るが、息を切らして紅潮した千尋の顔では、些かの怒りも伝えはしなかった。云いたいことがあるような気もしたがそれは纏まらないままで、千尋は酸素が足りず力の抜けた躰を大人しく千迅に預けた。
「キスってこうやってするらしいぜ。」
 そんな千尋の髪を撫でながらくつくつと笑う異母兄の顔は、見なくても睛に浮かぶようだった。