名前を呼んで

こちらのお話は以下のやりとりから発生したお話になります。
かまくらさんにはネタの使用と掲載の許可をいただいています~!

 

 凜一は困り果てていた。恋人になってまだそれほど時の経っていない氷川からのお願いに、頷くことも拒絶することもできず、睛をうろうろと泳がせながら、膝に抱えたクッションを強く抱き込んだ。
「どうしてもだめか、凜一、」
「どうしても……ということでは、ないですけど、」
「ぢゃあ呼んでくれよ。付き合っている者同士の特権みたいなものだろう。」
「でも……、」
「……そうか……。凜一と付き合えてよかったと思っているのは、俺だけなのか。」
 氷川の整った眉が悲しげに下がるのを見て、凜一は慌てて抱えていたクッションから躰を乗り出して「氷川さん、」と呼ぶ。
「そうぢゃなくてさ。」
 氷川はガードを解いた凜一の腕をすかさず掴むと、射貫くようにじっとその睛を見つめる。
「名前で、呼んでくれよ。」
 凜一は頬が熱くなるのを感じた。恥ずかしくて顔を隠してしまいたいが、氷川の握力からは逃れることはできず、浮かんだ感情をすべて彼に晒してしまう。
「だって……、氷川さんは、氷川さんぢゃないですか、」
 声が震える。
「その理屈でいくなら、おれは凜一のことを原岡と呼んだらいいのか、」
「え……、」
「厭か、」
「……厭です……。」
「だったらさ。俺のことも名前で呼んでくれないか。」
 ん、と促すように云う氷川の様子にひどくときめいて、凜一は心臓が爆発してしまいそうだと思った。
 名前で呼ぶのが厭なわけぢゃない。まして恋人になれたのがうれしくないわけがない。ただどうしても恥ずかしくて、艶めかしく思われて、舌の上に彼の名前を乗せることができない。
「あ、もしかして、俺の名前知らないのか、」
「そんなわけないぢゃないですか。亨介さんです。」
 狼狽した凜一が口を滑らせたことに気づいてあ、と思った瞬間には氷川が体重を掛けてくる。凜一はその力に抗しきれずその場に押し倒される。背中が床につく前に、氷川の腕が柔らかく凜一を抱きとめた。
「やっと云ったな。」
 氷川がおかしそうに笑うので、そこでようやく凜一はすべてを悟った。
「揶揄っていたんですか、」
「あんまりにも凜一が恥ずかしそうにするもんだからさ。」
「いぢがわるいです。」
 身動きができない凜一は首だけを横に向けて唇を尖らせる。
「怒るなよ。可愛かったんだ。」
「もう氷川さ――、」
「名前、呼んで、」
 凜一の唇に人差し指を当てた氷川が優しい眼差しで乞う。ぞわりと背中が震えて凜一は目眩がした。優しい睛の奥には、ゆらりと揺れる炎が、見えたので。
「……きょうすけ……さん、」
 凜一が一音一音、おそるおそるその名前を口にすると、そのあとはまるで捕食獣が獲物に噛みつくように、唇を奪われて息もできなかった。