風に紛れる程度のごく軽い雨粒が、段々と質量を増して重く長く降り始める。
「……やっぱり厭です、」
哉は閉じていた瞼を開いて顏を背けた。彼の上に覆い被さっていた越知はわずかに眉をひそめた。
「不安にさせたかな、」
「そういうことぢゃありません。ただ気分が変わっただけです。」
哉は越知の躰を押しのけると背を向けてシャツの釦を留めた。上から三つが外されて肌が顕わになっていた。ひとつひとつを掛け直して慎みを取り戻す。乱れた髪を手ぐしで整えていると、背後から煙草の烟が香った。
「不可逆性の行為に慎重になるのはごくふつうのことだよ。」
越知の吐き出した烟は長く尾を引き重く宙に漂っている。その声は先ほどのまでの熱などまるでなかったかのように、哉の聞きなれた、生徒の質問に明快に答える教師のそれだった。
「君がしてみてもいいと思ったときでいい。」
身繕いが整った哉が振り返ると、越知はいつもと変わらない顔で微笑んでいた。
「どうする。本でも読んで帰るかい。貰いものの菓子もある。」
きみの好みに合うかは解らないけれどねと云いながら、湯呑みを用意をしに越知は立ち上がった。哉はその背中を眺めながら、間をもたすために越知の本棚から題名も見ずに本を一冊取り出した。内容など頭に入ってこない。
哉は越知に好意を持っている。手にふれられるのも、気息を合わせることも、始めてみれば終わるのは惜しいと欲が深くなる。その先にどういった行為があるのかを、知らない振りをするほど哉は狡くはないが、いざそうなってみると心が怖じ気づく。雨宿りを口実に越知の下宿を訪ねてみたが、そんなつもりはないと躱した哉に越知は機嫌を変えることなかった。外の雨はまだ止みそうになかった。
◇
哉は何かと理由をつけて越知の家に通った。行けば必ず本を借り、次にまた訪ねる口実をつくった。児手山の蔵に越知の気に入りそうな骨董があれば見繕って持って訪ねた。越知はいつも変わらない様子で哉を迎えた。急須で茶を淹れて、菓子を用意し、すっかり哉の定位置となった本棚の前に銘仙の座布団を用意して待っていた。
哉はどうしていいか解らなくなっていた。本当に厭なわけではなかった。どんなことでも、初めてすることに気後れがするのはそれほどおかしいことではないと思う。
あの雨の日から何度となく越知の元へ通っても、哉から躰を寄せてみても、越知はいつもの落ち着いた顏で柔く哉を撫でるばかりだった。それはまるで子や兄弟にするような交わりで、哉は躰の中には虚が溜まっていった。
「先生、」
その日は風が強く吹き付けて、縁側の窓を絶えず揺らす雨模様だった。風の唸り声は増し、この後中道を通って哉が児手山に帰るのは危うい天候だった。哉は天気がそうなることを見越して越知を訪ねていた。翌日は休日だった。窓の外をしきりに眺めていた越知は、とうとう哉を家に帰すことを断念して児島の家に哉を預かる旨を連絡した。
「解っていて来ただろう。しょうがないヤツだな。」
越知は口では呆れながらも、やはりいつもと変わらない顔で笑った。水滴の落ちる音がする。受け止める青貝擦りの椀が天井に音を響かせる。哉は唇の端を曲げた。
「……ぼくが厭だと云うのを、真に受けないでください。」
哉は拳を握りしめて声を震わせた。
「なんで、ぼくが泊まるのに困らないんですか。もう困ってはくれないんですか、」
哉は越知の胸に縋って泪をこぼした。
「初めて……することなのだから……自分では踏ん切りがつけられない……、」
越知は胸に飛び込んできた哉を強く抱擁する。本棚に押さえつけて哉の逃げ場をなくすと唇を被せた。哉は抵抗することなく受け止めて、自分から薄く唇を開いた。口づけが深まるほどに哉の力は抜けて畳の上に腰が落ちる。越知は哉の躰を横倒しにすると耳元で囁く。
「本当に厭だったら、思い切り蹴飛ばせ。」
普段よりも乱暴な越知のことばに哉の血は騒いだ。外では雨が飛沫を上げていた。哉の耳にはもう椀の受け止める水音は聞こえなかった。