その男は夕顔に映る故人を手招いて、凜一に一瞬の逢瀬を与えた。薄暮に浮かぶ白は胸を満たすに充分だった。だから躰が求めるままに、凜一はその男と口づけを交わした。
◇
父を喪って六年目の夏だった。凜一は京都に向かうため東京駅のホームにいた。半ば衝動的に思い立った行動のため、ボストンバッグを提げてはいるが外泊に十分な準備が詰め込まれているわけではない。
京都の千尋にはホームの公衆電話から向かう旨を伝えようとしたが、生憎とつながらなかった。凜一はコール音が鳴り続ける受話器を置くと、ホームに到着した関西方面へ向かう新幹線に乗り込んだ。新幹線は発車を知らせるベルを鳴らすと間もなくゆっくりと動き出す。凜一は見慣れた東京の景色が徐々に遠のいていくのをぼんやりと眺めていた。
喪った人の影は凜一の中で年々色を濃くして、逢いたいという想いが募るほどに凜一を打ちのめした。甘やかな思い出を繰り返し想起して自らを慰めようとしても、九歳で別れたためにその思い出も朧で、夢にさえ父は現れてはくれない。ただ恋しさだけが積もってひとりではいられず、千尋の傍に行きたいと思い凜一は京都に向かっていた。
凜一は京都に着くまでは浅い眠りに身を委ねていた。脳裏にはこの秋に迎える父の七回忌のことが浮かんでいた。秋が近づくにつれ、古い門下生は故人の挿けた花を偲んで思い出を口にするが、その思い出話も凜一にとってはピースの合わないパズルのようでうまく像を結ばない。
だから、凜一とは異なる想いで、けれど凜一と同じくらい父のことを慕っていた千尋から、その思い出の話を聴きたかった。父を送り出した日に握ってくれたあの手のぬくもりが欲しかった。
うつらうつらとするうちに車内アナウンスがまもなく京都に着くことを知らせる。凜一は微睡むうちに浮かんでいた生理的な泪を拭うと、座席のリクライニングを戻し立ち上がった。京都で下車する人々が並ぶ列に凜一も加わる。
窓の外では日が落ちかけていた。千尋の借家に着くのは夕暮れになりそうだった。京都駅の改札を抜けた後、凜一はもう一度千尋の借家に電話を掛けたがやはりつながらなかった。今日は留守にしているのかもしれない。凜一は千尋の在宅を半ば諦めながらタクシーに乗車した。
行き先を告げてシートに深く腰掛けると、何もかもがうまくいかないような錯覚に囚われて凜一の気持ちは沈んでいた。倦んだ思いを跳ねよけようと自らを叱咤してみても無力で、凜一は無理に気持ちを切り替えることを早々に諦めた。恐らく訪ねても千尋は不在で、ならば暫く陰鬱とした気持ちのままでも構わないだろう自棄に思った。
窓の外の夕日は溶け落ちそうなほど柔らかな輪郭で地平に沈んでいく。凜一はいつか父と手をつないで歩いた散歩道を思い出していた。夕飯に間に合うように帰ろうという父の手を引いて、あちこちと寄り道をしながら家へ帰った日のことだった。
―ごらん。昼間に通ったときは蕾だっただろう。日が暮れないと花が開かないから夕顔と云うんだ。夜咲く花には逢いたい人の俤が映ると云ってね、凜一にも、逢いたくても逢えない人ができたら、そっと夕顔に逢いに行ったらいい。
凜一がはっとして睛を醒ますと、タクシーは千尋の借家へ入る路地を曲がろうとしていた。凜一は慌てて財布を取り出して支払いの準備をする。ずっと忘れていた父とのやり取りを思い出して、凜一の心臓は煩いぐらいに脈打っていた。
タクシーを下車して玄関先に立ったが、家内に灯りは点いておらず人の気配もない。凜一は玄関先の甃石下に匿されている鍵を使うことにした。
その鍵はこの家を訪れる者が共用で使用できるように、家主の外出中はそこに置いておくことが慣わしになっている。
凜一は苔の塊をどかして甃石の下を覗くが、そこに鍵はなかった。不審に思いながら立ち上がって玄関の戸を引くと、カラカラと音を立てて戸は開く。
「千尋兄さん……、」
玄関先から心許なく声を掛けてみるが、邸内はしんと静まり返ったままだった。廊下の先を注視しながら暫く待つが、千尋が現れる気配はない。
戸締りの不用心さを思いながらも、凜一は玄関に入り戸を閉める。上り框に腰かけて靴を脱いだ後、不意に睛に入ったのは玄関花として挿けられた夕顔だった。
凜一は玄関を上がり花の前に座り込んだ。夕顔は平たい油皿に花留は炭。皿の縁から蔓は床を這い、不意に不思議な力で持ち上がると中空に留まり、夕顔の白い花は薄暮の中に浮いているようだった。
―凜一……。
風の囁きにも似た声で、凜一は確かに呼ばれた気がした。夕顔のその定型に納まらない闊達で凛とした姿は、かつて凜一が飽きることなく眺めてきた父の挿けた花そのものだった。
「凜一……、」
薄闇の奥から響いた声に、凜一の口は呼びたくて仕方がなかった人の名を呼びかけるが、それが声となって空気を揺らすことはなかった。見上げた先にいたのは考えもしなかった人だった。
「おまえ……、凜一か、」
凜一の名を呼んだのは、千尋の異母兄弟であり、父の直弟子でもあった英千迅だった。凜一はすぐさま言葉を継げずに遠くで響く風鈴の音をぼんやりと聞いた。生ぬるい空気が肌に張り付いた。
「千迅さん……、なんで……。」
「なんではこっちの台詞だ。千尋を訪ねて来たのか。あいつは今日は於じまに呼び出されて留守だぜ。」
互いに困惑しながら対峙した。小椋家の庶子である千迅は、表向きは小椋家と断絶していることになっているが、最も歳の近い異母兄弟である千尋とは非公式の交流を持っていた。千迅は住まいも仕事も東京にあるが、小椋家の目の届きにくいこの京都で千尋と過ごす時間を持っていることを凜一は知っていた。
「どうしたんだ突然。千尋はおまえが来ることを知っているのか。」
凜一は小さく被り振った。ひとまず中に入れと、灯りの点いていない居間に通される。今の縁側の戸は開け放たれ、軒下に吊るされた風鈴が途切れながら高く澄んだ音を鳴らしていた。
「何か特別な用事があったわけぢゃないんです。ただ千尋兄さんの顔が見たくて……。駅から何度か電話したんですがつながらなかったので、留守なのかなとは思っていたんですが……、」
予想していたことではあったが、凜一は落胆する気持ちを抑えられなかった。また、二年ぶりに顔を合わせた千迅に、なぜ突然千尋を訪ねたのか理由を説明することも難しかった。遣る瀬無くて、父が恋しくて、ひとりではいられなかったなど、云えるはずもない。
「おかしなやつだな。千尋は今日は戻らないかもしれないぞ。」
千迅と凜一が初めて出逢ったのは、凜一が十三歳のときだった。偶然にもこの千尋の借家で、凜一が父を偲んで挿けた花を「思入れと情緒だけのくだらない花を、人目につくところへおくな」と切って捨てたのが千迅だった。凜一はそのときに酷く傷ついた気持ちを今も心の中に忍ばせていた。
日が暮れて辺りは薄闇に覆われる。庭の生垣には蔦を伸ばした夕顔が巻き付き、花を開いていた。薄暮の中に望洋と浮かび上がる白が凜一の胸に迫った。
「あの夕顔は……、」
千迅は凜一に背を向けて縁側の欄間に手を掛けて外に睛を遣っていた。風鈴の短冊は風を受けてくるくると回る。
「お父さんが挿けた夕顔みたいだった……、」
なぜ千迅に吐露したのか解らなかった。情に縋って甘えるような真似を決して許してはくれない相手だと知っているにもかかわらず、口から知らずこぼれ落ちていた。
庭を眺めていた千迅が振り返った。凜一は気まずさから目を伏せる。すると千迅に頤を掴まれて強引に顔を上げられた。睛と睛が合う。凜一は息を忘れた。
「なにも泣くことはないだろう。」
目尻に溜まった泪を千迅に拭われるまで、凜一は自分が泪を浮かべていることに気づかなかった。千迅の手が頬に触れた。そのぬくもりになぜかひどく安堵した。凜一は自然と睛を閉じていた。風鈴が鳴った。
唇にあたたかなものが触れた。凜一が欲しかったものだった。千迅の吐息で唇が濡れる。凜一の胸は歓喜に震えた。そのぬくもりがもっと欲しくなって、背伸びをしてもう一度千迅の唇に触れる。二度、三度と啄むように触れていると、凜一の唇を押し広げて千迅の舌が咥内に侵入した。
驚いた凜一の腰が引けると、背中に腕を回されて逃げ道を塞がれる。角度を変えるために唇が離れる一瞬に息を継ぎ、溺れるように口づけを交わした。凜一を捕らえる腕は背を滑りやがて腰を抱いて躰がより密着する。千迅の腕の熱さに奥が疼いた。
嗅ぎ慣れない苦い匂いが鼻を掠める。耳朶を食まれれば喉の奥が鳴った。シャツの下を手が這っていると気づいたときには首筋を吸われていた。凜一は夢中になって千迅の肩に縋って欲に喘いだ。
日はすっかり落ちてお互いの姿は影になる。千迅は凜一の手を引き、廊下を進んだ奥にある和室に凜一を連れ込んだ。普段は客室として使われる一室で、千迅の滞在中の部屋なのだろう。千迅は部屋の外に凜一を待たせて室内の隅に畳まれていた布団を敷くと、その上に膝を立てて座った。
「欲しいものがあるならくれてやる。ただし俺は千尋とちがって優しくはないぜ。」
室内に薄っすら漂う苦みのある匂いは千迅が纏う匂いと同じだった。千尋の吸わない煙草の匂いが、そこにいる男が誰なのかを凜一に知らしめる。
凜一は縁を跨いで室内に入ると後ろ手に襖を閉めた。膝を折って千迅の唇に触れると、そのまま深い交わりを続けながら布団に身を沈める。躰の奥がこの男を求めていた。