薄明

 そこは客室は三室という谷中の小さな旅館だった。知る人は知る、評判は客から客へと口伝えで知られるその旅館は、広告等は一切出していないにも関わらずいつも満室の宿だった。
 畳は青くほんのりとい草の香りがし、床の間には椿が一輪だけ活けてあるが、大ぶりの花を咲かせており一輪で十分な華やかさを醸している。すべての部屋に坪庭が付き、内風呂も手洗いも備えてある。
「おまえなかなかいい宿を知っているな。」
 千迅は鴨居に手をやって整えられた坪庭を眺めながら気に入った様子で云った。
「ぼくも美豆木画廊のオーナーに教えてもらったんです。こぢんまりとしていて、行き届いていて、かといって肩肘張るような窮屈感もなくて気に入ってるんです。気が滅入ったときに気分転換に寄らせてもらってるんです。」
 そう云いながら凛一は備え付けの急須に湯を淹れる。急須にはあらかじめ緑茶のティーバッグが入っており、手間なくお茶を淹れることができる。
「まあ明日もお日柄はよさそうだな。」
 外では陽が傾きだし、冬の冷たい風が広縁から室内に吹き抜ける。千迅は用意された下駄を履くと坪庭に出て煙草に火をつけた。

  ◇

 夕餉の前に風呂は済ませておくことにし、いつも通り凛一が風呂に入っている間千迅は煙草を喫い、凛一が戻ると入れ替わりで千迅が風呂に向かった。部屋には煙草の残り香が漂う。千迅が風呂から戻ると間もなく夕餉の準備に女将と仲居が尋ねてきた。揃いの旅館の浴衣に身を包んだ二人は座卓の席についた。
「原岡さんがお連れ様とご一緒なのは初めてですね。」
 女将は一通りの配膳を済ませた後、一人用の小鍋を温める固形燃料に火を点けながら云った。凛一とは随分と馴染んでおり気さくな語り口だった。凛一が、ええと言葉少なく答えるのを面白がった顔で千迅が引き取る。
「明日はこいつの結婚式なんですよ。独身最後の夜をどうしても一緒に過ごしたいと強請るものでね。」
 その愉快そうな調子に凛一は一瞬千迅を睨むが、女将の手前すぐに微笑を取り戻す。
「そうだったんですね。おめでとうございます。」
 女将は配膳の手を止めて祝いの言葉を口にする。
「ありがとうございます。今日はゆっくり最後の羽を伸ばさせてもらいます。」
「ええごゆっくり。仲良くお過ごしくださいね。」
 凜一言葉に女将は笑顔で応えた。女将には仲の良い兄と弟のようにでも見えているのだろう。そうでなければ年の離れた友人か。いずれにしろその間柄に如何わしさなど微塵も感じることなく、婚姻前の最後の羽伸ばしを微笑ましく思っているようだった。もう一度ごゆっくりと云い添えて女将は部屋から退いた。
「疑われないってのは結構なことだな。」
 完全に襖が閉まるのを確認してから、千迅は人の悪い笑みを浮かべて盃を傾ける。対面では呆れた顔をした凛一が冷ややかな目で千迅を見ていた。
「わざわざ云い触らすようなことぢゃないでしょう、」
 凜一は冬瓜の炊き合わせを口に運びながら憮然としていた。
「そもそもおまえが悪いだろう。昔の男に式場まで送迎させるなんてのは趣味が悪いぜ。」
「千迅さんがぼくの男でいてくれたことがありましたか、」
 凜一は千迅の軽口には取り合わず、溜息を吐いて食べ終わった椀の蓋をした。
 明日は凜一結婚式だった。結納を済ませ、借りていたマンションも既に引き払い、結婚後は再び御殿山の家で祖母と妻となる女性との三人暮らしが始まる予定だった。
 マンションを引き払った凜一は明日までの家がなく、凛一は取った宿で千迅と一晩過ごし、翌朝式場まで送って欲しいと我儘を云ったのだった。
 凜一結婚式には当然、小椋家と一切の関係を持たないという昔の取り決め通り、千迅は招待されていない。
「いつになることかと思っていたが、おまえがようやく年貢を納めて家元もさぞ安心したことだろう。」
 これまでに幾度なくおまえの躰はおまえ一人の躰じゃない、伝えられたものを次へ伝える義務があると凜一を諭してきたのは千迅であり、ようやくそれが叶ったことに心より安堵した様子を滲ませる。
 千迅は凜一空になっている盃に気づくと徳利を傾けて促す。凛一は盃を持ち上げて千迅に注いでもらうと、並々と満たされた水面を眺めながら去来する想いに浸った。
「女の人が平気になったわけぢゃないです。」
 凜一呟きが盃の水面を揺らした。
「必要だからする結婚のつもりだったんです。」
 凜一は三十歳になるまで結婚の覚悟を決められずにいた。学生時代は当然容認できるはずもなく、未来に対して暗澹たる気持ちになることもしばしばだった。
 しかし大学を卒業し、天海地流の次期家元としての仕事に取り組むうちに、自分一人の願望で話を済ませられないことを肌で感じるようになっていった。結婚し嫡子を持ち、流派の枝を未来につなげることからは到底逃げられない。ならばどうにか折り合いをつける方法はないかと模索する日々だった。
 凜一の縁談相手は天海地流のかつての主流派であった山口支部を纏める教授の娘で、年も凜一より四つ若い釣り合いのよい相手だった。家元はそれまでも凜一縁談に腐心して何度か見合いの席を設けていたが、この結婚相手は凜一が自身で選んだ相手だった。
 当初家元はこの縁談によってかつての主流派が再び勢いずくことを警戒して難色を示していたが、流派内の求心力に欠く凜一が後ろ盾を得るためにと家元を説得したことで結ばれた縁だった。
 凜一がこの相手に欲望を持つことはない。けれど、家族としての愛情を持つことでどうにか家庭を成立させることはできないか。かつて千尋が出した結論と同じ結論を凜一もまた導きだしていた。
「釣り合いの取れる、流派にとって有益な縁談をと考えて選んだ人ですが、とても好い人で。家族の揃った家庭で健やかに育った人なので想いに裏がない。父は色々と考えているようだけれど、自分は流派が今後も栄えることと次期家元を支えることを一番に考えていると、そう云ってくれるんです。」
 云いながら凛一は盃を煽る。
「ぼくの勝手に巻き込まれるこの人が、せめて穏やかに過ごせるように大切にしようと思いこそすれ、まさかこの人から何かを貰おうなどと露も思っていなかったんです。でも、日常的に顔を合わすようになって、結納をして、結婚することが段々と現実的になってくると、もしかしたらこの人はこれまで欲しくて堪らなかった、ぼくのために何を犠牲にしても駆けつけてくれる人になるんぢゃないかって、そう気づいてしまって……。そうするとどうしようもないぐらいの安らぎを覚えてしまったんです……。」
 訥々と話す凛一は空になった盃をぎゅっと握った。鍋は煮えた音をさせ、あしらいに入れられているのだろう柚子の香りが湯気と共に漂った。
「結構なことぢゃないか。それがいい縁談ってもんだ。千尋を見てみろよ。娘ももう小学生が終わる頃だろうが、なんだかんだでよろしくやってるぢゃないか。」
 千迅は鍋の蓋を開けると、ポン酢ともみじおろしが入った取り皿に白菜、鶏、ネギ、豆腐とを移していく。
 千尋も、晟先生も、そうやって血を繋いで家を守ってきたのだ。何も気に病むことはないと千迅は云った。しかし、凜一後ろ髪を引くのはそれだけではなかった。
「でも……、そう思う反面、同じくらい断ち切りがたい想いがあるのも事実なんです。」
 千迅の箸が止まった。覚悟した凜一は顔を上げて千迅の顔を見据える。
「おまえはそろそろ欲望と愛情が別物だと理解していると思っていたが、」
 凜一が思っていた通りの呆れた声だった。愛情と躰の欲望という相反するものが同じ人間で事足りるわけがないというのが千迅の持論だ。凜一は千迅に欲望だけを抱いているわけではなかったが―。
「抱いてください、」
 そう云うよりほかに千迅に伝えられる言葉を凛一は持たなかった。
「本当におまえ、趣味が悪いぜ……。」
千迅は苦虫を噛み潰したような顔をしたまま、取り皿の中の豆腐を割って口に運んだ。

  ◇

 夕餉が済むと、仲居がやって来て布団を二組並べて敷いていく。それを凜一は部屋の隅で眺め、千迅は広縁で煙草を喫っていた。布団を敷き終わると、仲居は屈託のない様子でよい夜をと声掛けて下がる。凛一は部屋の明かりを切ると広縁に腰かける千迅の背にそっと頬を寄せた。軒下からも見える丸い月が二人を照らしていた。
「明日があるだろう。咳き込んだらどうするんだ。」
 これまでは千迅に云われる通り、煙草を喫うその傍には決して近づかなかった凜一だが、今晩だけは行儀のよい振舞いをすることはできなかった。
「駄目ですか……。」
「駄目だと云ったら、おまえすんなり寝てくれるのか。」
「千迅さん……、」
 凜一は千迅を背後から抱きしめて浴衣越しにその躰を弄って首筋に、髪に、耳介に、口づけをする。千迅の躰に触れているだけで凜一躰は熱くなる。千迅は咥えていた煙草を外し烟を吐き出すと、凜一の後ろ頭を掴んで強引に口づける。
「俺を間男にするとはいい度胸だよ。」
 煙草を灰皿に押し付けると、凜一躰を横抱きにして布団の上へ運んで覆いかぶさる。運ばれた凜一が暗がりで見上げる千迅の顔に見惚れていると噛みつくような口づけが降ってきた。凜一は千迅の頭に腕を伸ばして、落とされる口づけを存分に味わった。
 帯で留めただけの旅館の浴衣は容易く乱される。凜一の帯を解いた手と同じ手で千迅は眼鏡を外して枕元に置く。凜一の躰に触れる千迅の手はいつになく慎重で、割れ物を扱うように優しく、羽で触れるような軽い感触で、与えられる刺激の薄さに凜一は焦れた。
「や……もっと……、酷くして……、」
 凜一は熟れた睛で千迅を見上げる。
「莫迦……、痕がついたらまずいだろ……。」
 鬱血しやすい凜一肌を知る千迅はわざと必要以上に触れなかった。
「痕……、つけて、欲しい……、」
 凜一は自分の腰を触れる千迅の手を取ると、その人差し指を咥内に含んだ。指の腹に舌を這わせて愛撫する。二度三度と腹側を舐ると舌を絡げて背側に舌を這わせる。舌の裏側で柔く音を立てて舐ると爪先を強く吸って、じっと千迅を見つめた。
 根負けした千迅は腰に絡まる凜一の膝をとるとぐいと持ち上げて太腿を露にする。闇夜にその白い肌が浮かび上がる。舌先でつうっとその内側に舌を滑らせると、唇を付けて強く吸った。あられもない姿にされながらも凜一は喜びに震えた。
「見つけられるんぢゃないぞ。」
 色濃く鬱血する痕を付けた千迅は唇を舐めて凛一を見下ろした。凜一は頷く代わりに瞬いて涙を一粒流すと、さらに口づけを強請って千迅の首筋に腕を伸ばした。

「千迅さんと朝日が見たいです。」
 凜一は息を切らしながら千迅の胸に倒れ込んで、その心音に耳を傾けながら呟いた。汗でしっとりと濡れた肌は自他の境界を越えて交じり合う。早鐘を打っていた鼓動が速度を緩やかに落として脈打つ律動は凜一耳に心地よく響いた。
「今は寝ておけ。起こしてやる、」
 そう云いながら千迅が凜一髪を撫でると、まどろみに飲み込まれかけていた凛一は安心して瞼を閉じた。

  ◇

 夜明け前の車も疎らな首都高速の湾岸線を千迅のハイヤーは走っていた。助手席の凜一は顔を背けて薄暗い外を眺めている。二人の間に言葉はなかった。凜一は右手を伸ばして、膝の上にある千迅の左手の指先を撫でる。千迅もそれを振り払わなかった。車は高速を降りると環状七号線に入り城南野鳥橋を渡る。空には紫がかった雲が立ち込めていた。
 一台も停まっていない海浜公園の駐車場に車を停めると二人は車外に出る。外気に触れると凜一は肩を震わせた。千迅は凜一より先に歩いて砂浜に入り、煙草の火を点けた。立ち昇る烟が一筋空に伸びた。
 寄せては返す波の音が凜一胸を掻きむしる。同じような日々が続いていくと信じていたときもあった。けれど波のように変わらず、寄せては返すだけの日々が続いていくわけはなかったのだ。
「このまま攫ってください、」
 凜一は千迅の背に縋って懇願した。コートの肩口を掴んで頬をその冷気に濡らす。千迅は煙草を携帯灰皿に押し付ける。
「俺の順位が一位になったら考えてやるよ。」
「ずるい、」
「どっちがだ。」
 千迅は腕を回して凜一を正面から抱きしめる。堪らず腕の中から見上げると、千迅はこれまで見たことがないぐらい優しい微笑みを浮かべていた。
「おまえがどうしようもなくなったら盗んでやるよ。」
 千迅は凜一こめかみに唇を落として、海風に流される黒髪を撫でて囁いた。
「原岡も小椋も天海地流も、全部放り出したくなったら俺のところにくればいい。」
「今そんな風に……」
 甘やかしてくれるのはずるいと続けようとした凜一の口は、千迅の唇で塞がれる。触れたと分かった瞬間に凜一咥内に舌が侵入して上顎を舐める。千迅は不意のことに怯んだ凜一の舌先をそのまま掬い取ると強く吸った。その不安も、悲しみも、すべて引き取るように、心の裡まで舐るキスをされて凜一頭の奥は痺れた。

―英は、あらかじめ相手のために逃げ道を用意する。

いつか聞いたその言葉が蘇る。自分もまたその逃げ道に救われ、縋ることになった切なさが凜一の心を覆った。
「どう、して……、」
 凜一は千迅の胸の中で泣きながら問わずにはいられなかった。冷たい風から守るように千迅は凜一躰を強く抱きしめる。
「野暮を訊くなよ。愛しているからに極まってるだろ、」
 雲が割れて朝日が顔を覗かせる。夢の終わりを知らせるような暁の光が二人を照らした。