線が混じる

線を越えるの続きです。凜一さんが師匠、千迅さんが弟子の年齢逆転パロです。 

 

 

 未央柳が咲き誇る初夏となった。今年も御殿山の庭には可憐な黄色がひしめいている。凜一は父の好んだこの花が絶えることのないよう、殊のほか手塩に掛けて育ててきた。昨年までは傍らに千迅がおり、ふたりで水撒き、草抜き、剪定をして庭の世話をした。
 千迅がK大に進学してから三ヶ月が過ぎようとしていた。進学した千迅は学生寮に入った。共同生活を営む千迅と、凜一が頻繁に連絡を取ることは難しい環境だった。電話は寮生の共用であるため取り次ぎが必要な煩わしさがある上、込み入った話も、長電話もし難い。そもそも電話で連絡を取り合うこと自体、「内弟子だったとはいえ、特定の弟子と懇意と思われてはいけませんので。」と、急用でもない限り電話はしないよう、凜一は千迅に釘を刺されていた。それでは逢いに行こうかとも思ったが、新生活を始めたばかりの千迅の元を訪ねることは気が引けた。
 その代わりに千迅は手紙を寄越した。流麗な筆致の封書は月に一、二度届き、千迅の近況を知らせた。手紙が届くことは凜一の愉しみではあったが、それは親にでも宛てるような当たり障りのない内容で、忙しい学業の合間を縫っての手紙であることを理解しつつも、凜一は物足りなさを感じていた。千迅の手紙が師匠に宛てた手紙である以上、返事を書く凜一も弟子に向けた手紙以上の内容を書くことはできなかった。
 そうした最中、天海地流では夏の華道展を迎えようとしていた。家元は、大学時代を京都で過ごした凜一に京都支部の視察を云い渡した。凜一の胸が躍ったのは云うまでもない。凜一は、早速千迅に華道展のため京都へ向かう旨の手紙を書いた。仕事で行くのならば何を憚ることもない。逢える悦び、ふたりで過ごしたい気持ち、溢れる想いはいくつもあったが、千迅からの手紙を読み返すにつけ、そうした想いを認めることは、終ぞできなかった。

   ◇

 七月の下旬。京都支部の華道展の日を迎えた。凜一は昼前に京都駅に着き、会場となる百貨店内の美術画廊へ向かう。
 会場に到着すると、午前中から始まった挿け込みはほとんど完了しており、昼過ぎの開場に向けて各所で最終調整が行われていた。つい先頃、無事に教授格の試験に合格をした千迅の作品も並んでいる。会場には千迅もいるはずである。
「若先生、」
 京都支部の事務局の担当者が凜一の来場に気づくと、瞬く間に支部長が呼ばれ、関係者に囲まれた。支部長には京都駅まで迎えを寄越すと云われていたが、開場準備を優先するよう凜一が指示をしていた。
 京都支部の面々との挨拶をかわしながら睛の端では千迅を探していると、会場奥で作業をしていたらしい千迅が遠目から凜一に黙礼した。凜一の心臓は跳ね上がった。
 およそ三ヶ月ぶりに見る千迅だった。凜一が進学の祝いに仕立てたスーツを着ている。テーラーに連れて行き、千迅の身丈に合わせて注文したそれは、生地の艶が遠目にも解り、彼の躰によく沿って男振りのよさを際立たせていた。凜一が真っ先に駆け寄りたいのは千迅であるが、家元の代理で訪れた華道展会場ではそうもいかない。囲む門弟たちに応じているうちに開場のときを迎え、今度は招待客の対応に明け暮れた。
 ようやく夕方で閉場となっても、夜は流派の懇親会だ。これには教授格となった千迅のお披露目も含まれていた。ここでようやく口を利けるタイミングが訪れるかと思いきや、場の主役である凜一の傍には常に誰かが侍り、千迅と話すどころではない。酒も入ればますます場は賑やかしく、凜一は注がれるがまま酒を呑んだ。
 箱膳の並ぶ料亭の座敷の上座が凜一の席であり、この席で一番の若手であろう千迅は、出入り口付近の下座だ。少しでもその姿が見えないだろうかと睛を遣れば、千迅は頃合いのよさそうな若い女性の門弟に酌をされていた。今期の試験で教授格に上がった門弟は数名いたが、その内で最年少の千迅は何かと注目されていた。試験で千迅が披露した歳に似合わない巧者の花は、天海地流の伝統をよく受け継ぎ、並み居る煩さ方の幹部を一瞬黙らせたほどだった。
 他の合格者と共に席の始めに一同に向け挨拶をした後は、あちこちで声が掛かかり凜一の傍にはいない。凜一は一度睛を閉じて息を深く吐くと、支部長に注がれた猪口を一気に呷った。
「若先生はお強いですね。」
 支部の幹部からはそんな声が掛かる。凜一は応える代わりに微笑むと、再び注がれた酒にまた口をつけた。やがて膳は水物まで進み、桃果の瑞々しい甘みが喉を潤すと、散会の雰囲気となった。
 幹部は凜一が投宿するホテルまで送る車を呼んだ。それなりの量を呑んでいる凜一を気遣い、支部長は誰かを送りに同乗させようとするが、意識に問題のない凜一が断るつもりで口を開きかけると、それよりも早く背後から声が掛かる。
「私がお送りします。」
 千迅だった。いつの間にか座を離れ、凜一の背後に控えていた。
「そういえば内弟子をしていたね。」
 支部長も千迅が適役であることを認め、千迅の同乗はすぐに決まるが、凜一は思わぬ成り行きに動揺した。まもなく、女将が店の前に車が着いたこと知らせる。凜一の荷物を持った千迅は、座敷を出るよう促した。意識はまるで正常なのだが、凜一の足元はふわふわとした。
 凜一が支部の面々に見送られてタクシーに乗り込むと、その隣には千迅が坐る。宿は京都駅に近い老舗のホテルだ。凜一が行き先を告げるとドアが閉まり、車が走り出す。
「ご気分はわるくないですか、」
「問題ないよ。」
 途惑いと、ある種の気まずさを持っているのは凜一だけなのだろうか。三ヶ月ぶりの千迅との会話に、凜一はぎくしゃくとした。
 久方ぶりに聞く千迅の声、間近に見る姿、まとう空気。千迅を感じるすべてが凜一を昂ぶらせた。この三ヶ月で凜一が絶えず求めていたすべてが、手の届くすぐ傍にある。もっと話しがしたい。できるならその手にふれたい。もう誰の睛もない状況で、凜一の欲求は一気に膨れ上がるが、一方でその想いは凜一の口を重くもした。
 気後れしているのは凜一だけなのだろうか。千迅は三月に離れたときと同じ顏で、家元の息災や、凜一の最近の仕事、親しくしていた門弟の様子、御殿山の庭のことなどをあたりさわりなく訊ねた。それは手紙での様子と同じ弟子としての振る舞いそのもので、凜一は段々と気が重くなった。
 あの夜のことは、なかったことにしたいのだろうか。
 凜一がこれまでぼんやりと感じていた不安が、染みのように胸に広がった。制限の多い内弟子の生活を終え大学に進学すれば、文字通りの自由がそこにはあり、見るもの聞くことすべては新鮮なはずで、交友関係も広がったことだろう。男子校の一領学園とは異なり、座敷で見たように、女学生との関わりも増えたに違いない。大学生活を始めたことで、それまで与えられていなかった選択肢が千迅の意眼前に広がったのだとしたら、あの夜をなかったことにしようとしてもおかしくはない。電話をしたがらないのも、逢いたいという素振りが見えないのも、気持ちがなくなったからなのかもしれない。凜一は指先の痺れを感じながら、そっと窓外に顔を向けた。
 それは仕方がない。
 凜一は呑み込めない気持ちを自覚しながらも、理性の囁きに頷いた。まだ何も解っていない子どもを一方的な欲望で囲い込んだ報いだ。もしかしたらあの春の夜は、凜一が都合良く見た夢だったのかもしれない。そんな自嘲さえ浮かんだ凜一は、唇を歪めて固く睛を閉じ、溢れそうになる泪を堪えた。
 車内は沈黙したまま、凜一の指定したホテルのロータリーに到着する。凜一は、ホテルまで送ってくれた千迅に礼を云うと、そのまま運転手に次の行き先を告げた。
「このまま、彼をK大の吉田寮に。」
 凜一が多めの運賃を渡そうとすると、その腕を千迅は掴んで止めた。
「お部屋まで送ります。」
 思いがけず掴まれた腕に狼狽えた凜一は、咄嗟に何も云えなかった。運転手はどうするのか凜一に睛で訊ねる。千迅と運転手の間で板挟みになった凜一は、ひとまずホテルまでの運賃を払い、タクシーを降りた。千迅もその後に続いた。
「部屋まで、お荷物を運びます。」
 ぼんやりとしていた凜一は、荷物も持たず車を降りていたことに気づいた。
「うん……、わるいね。」
 凜一はどうにか板に付いた師匠の顔で応え、ホテルのエントランスに入った。千迅の顏がうまく見られず、掴まれた手首が熱かった。
 フロントで鍵を受け取り、ホールのエレベーターに乗り込む。階数ボタンを押した後も、千迅は一歩後ろに控え、余計な口はきかない。凜一は上昇するエレベーターの階数表示を眺めて、ふたりきりの空間をやり過ごした。エレベーターは止まることなく、真っ直ぐに凜一の宿泊するフロアに到着する。
 エレベーターを降りると、宿泊フロアの毛足の長い絨毯がふたりの足音を消す。凜一は振り返らずに廊下を進んだ。廊下を右に曲がった先の三部屋目が凜一の部屋だった。深夜のフロアでは誰ともすれ違わない。凜一に合せて沈黙する千迅が、何を考えているのかまったく解らず、凜一の緊張は高まる一方だった。ようやく部屋に辿り着くと、凜一は鍵穴にルームキーを差し込みゆっくりと回す。凜一はそこでやっと振り返って千迅を見た。
 初めて出逢った四年前の夏から、背丈が伸び続けた千迅は、今では拳ひとつ分、凜一よりも上背がある。今日、初めて真正面からその顔を見た凜一は途端に躰が騒ぐのを感じた。もう、どうしようもなく好きだと思った。
 絶対に自分のものにしたいと思った子どもが大人になり、凜一の好みのままに仕立ててやったスーツを身に纏い、手を伸ばせば届く間近で、夜よりも深い睛で凜一だけを見つめている。そんな状況で平静を保てるはずがない。腰に走る痺れは凜一が千迅に抱く欲望そのものだった。
「……ふ、たりで、泊まれる部屋を、とって、いるんだけれど……、」
 今、凜一がするべきことは、千迅に礼を云ってその手から荷物を受け取り、たった今鍵を開けた部屋にひとりで入ることだった。そうすれば、少なくとも千迅との師弟関係は続けられたはずだ。けれどこの三ヶ月、抑えていた千迅への想いは、凜一の堰を越える寸前だった。
 師匠と弟子でさえ、いられなくなるかもしれない。そう覚悟して凜一は云った。拒絶されるつもりだった。こんな莫迦げた関係に、千迅を付き合わせることはない。これでお仕舞いにしようと、そう思って凜一は俯いたが、千迅は凜一の腕を掴んだ。驚く凜一が声を上げる間もなく、千迅はその腕を引いて、凜一を部屋の中に連れ込んだ。

   ◇

「……ふ、たりで、泊まれる部屋を、とって、いるんだけれど……、」
 そう凜一に云われたとき、千迅の頭は真っ白になった。千迅は衝動的に凜一を部屋の中に連れ込むと、ドアが閉まるのも待てずに強く彼を抱擁した。荷物の落ちる音がした。
「なんで俺はあんたより十三も年下なんだ……、」
 千迅はもう何度、この悔しさを味わったか解らない。凜一が京都に来るという手紙が届いても、寮で生活し、学費と生活費をアルバイトで賄う千迅は、凜一を泊められるような宿を取ることなどできなかった。凜一とふたりで過ごしたいと思ってもどうすることもできず、未練がましく部屋まで送ることが精々だった。
「千迅……、」
 凜一の声が千迅の脳に響く。千迅の腕の中に凜一が納まっている。この三ヶ月、何度この体温を欲したかわからない。医学部の講義は想像以上に忙しく、休みの日も働く千迅は、東京まで凜一に逢いに行くだけの時間も金銭的な余裕もなく、三ヶ月前にたった一度だけしたあの抱擁が、千迅にとってのすべてだった。
「逢いたかった……、」
 千迅が絞り出すようそう云えば、身動きを奪われた凜一は指先で千迅のジャケットの端を握った。
「僕だって……、」
 凜一の絞り出すような声に、千迅のこの三ヶ月の我慢は限界を超える。抑えなど利かず荒々しく、欲しいままに凜一の唇を奪った。どれだけキスをしてもまったく足りる気がしなかった。
「も……、ちはや……、」
 息を荒らす凜一が、千迅に縋って訴える。足腰が立っていない。千迅は強く睛を瞑ると、彼を持ち上げて奥のベッドまで運んだ。
「ちょっ、千迅、」
 足が宙に浮いた凜一は慌てているが、千迅は取り合わなかった。たった数歩のこの距離さえ惜しかった。千迅は辿り着いたベッドに片膝をつくと、凜一をベッドの中央に下ろした。暗がりで凜一の様子はよく解らない。強く伸縮を繰り返す心臓を感じながら、千迅は凜一にキスをする。千迅が凜一の背に手を回し、腰を抱き寄せ躰を近づけると、凜一は千迅のジャケットを肩からずらしてシャツ越しに千迅にふれた。袖を抜いた千迅は、凜一のジャケットも脱がし、その躰を抱え込んでそっとベッドに横になる。ジャケットを吊りに行く余裕などない。ゆっくりと、じっくりと、味わうようにキスをする。
「ねえ……、外して……、」 
 キスの合間に、吐息の掛かる距離で凜一が云った。ネクタイのことだった。狎れず夢中になっている千迅は、情事には窮屈なそれがまだ凜一の首に巻き付いていることに、云われるまで気がつかなかった。千迅は羞恥を憶えながらも、凜一の肌を禁欲的に閉ざすそれに感じたことのない興奮を憶える。云われるがまま千迅が結び目に指を入れると、凜一もまた千迅のネクタイに手を伸ばす。
 千迅の着ているスーツは、ジャケット、スラックス、シャツ、ネクタイ、靴に至るまで凜一が選んで仕立てたものだ。分不相応だと千迅は固辞したが、入学祝いなのだからと凜一が譲らず、結局揃えるにあたっての総額がいくらになったのか千迅は知らない。師匠に与えられたものであるならば、スーツに見合うだけの精進を重ねる発奮ともなるが、惚れた年上の男に購い与えられたものであるならば、忸怩たる想いがないわけではない。
「よく似合っている、」
 千迅の首元からネクタイを抜いた凜一は、愛おしげに口付けた。暗がりに順応し始めた千迅の睛に年上の男の艶めかしい姿態が映る。手順ひとつ儘ならない千迅と違い、凜一は床での振る舞いに余裕があった。千迅は凜一の手からネクタイを取り上げると、有無も云わさず舌先でその唇をこじ開けた。
「っ……、ん……、」
 凜一が小さく喘げば、千迅の興奮も否応なく高まった。千迅は凜一の咥内を弄りながら、その寛いだ首元の釦もひとつふたつと外し、顕わになる鎖骨に口付け、わずかに歯を立てる。凜一は喉元を晒してゆっくりと、快感のひとつひとつを拾うよう、頭振る。危機感などなく、千迅のすることをされるがまま受け入れる凜一に、千迅は欲望の色が一色ではないことを知った。
「ああ。ちゃんと反応しているね……、」
 千迅が凜一の肌に夢中になっていると、凜一が千迅の中心に手を伸ばした。不意をつかれた千迅は思わず顔を上げる。
「窮屈だろう、」
 スラックス越しに撫でられると、千迅の意識は一点に集中した。
「さわりたいな……、」
 熱のこもった声だった。凜一は狎れた手つきでベルトを外し、下着越しに指先でその質量をなぞると、躊躇いなく千迅の中心をやわらかく握った。
「ちょっ、先生……、」
 慌てる千迅に、凜一は動じもしない。「力を抜いて……、」と囁かれ、絶妙な力加減で上下に擦られれば、千迅は寄せる快楽に容易く呑み込まれる。
 千迅が御殿山で内弟子をしていた頃、夜に出掛けた凜一が朝まで帰らないことが何度もあった。人と会ってくると云ったきり、どこに行くとも誰と逢うとも云わずに外出し、まだ誰も起き出さない明け方に帰って来る。帰宅した凜一が玄関戸を引くわずかな音で千迅の睛は醒めた。
 外出の理由はしばらく解らなかったが、校外学習のため普段よりも早く起床していた千迅は、朝帰りをした凜一と鉢合わせをしたことがあった。そのときの凜一から、普段彼が嗜まないはずの煙草や香水の匂いがしたことで、千迅は凜一が外で何をしているのか、朧気に悟った。
 凜一より十三も歳が下であることに、千迅は何度となく歯噛みしてきた。経験も、社会的地位も、何もかもが足りなかった。少しでもその差を埋めようと、花も学業も意地を通してやってきた。この夏でようやく教授格にもなったが、宴席での席次のとおり、なりたての若手教授格と次期家元では、その距離はあまりにも遠かった。
「誰かにさわられるのは、初めて、」
 差ばかりが思い知らされる中で、千迅は閨でもその経験の差を突きつけられる。千迅が好きになった相手など、凜一以外にいない。気を抜けばすぐさま訪れそうな限界との狭間で、千迅は凜一のことばに怒りさえ憶えた。
「……ッ、あたりまえ、だろ、」
 あまりにも狎れて、あまりにも余裕のあるその姿に、千迅の睛には快楽と悔しさの溶けた泪が滲む。翻弄されるばかりで、何一つ、凜一に追いつけず情けない。そんな千迅の心中を知ってか知らずか、凜一は花が開くような微笑みを浮かべると、伸び上がって千迅にキスをする。
「贅沢だねえ。おまえみたいな子が、僕しか知らないなんて……、」
 多幸感に満ちたその笑みに、千迅の血は逆流した。躰中に電気が走り、理屈ではもうなにも考えられなくなった。
「……さわって、」
 凜一は千迅の手をとると、自らの中心に導く。千迅は未だ敵わない焦燥を抱きながら、抗えず凜一に手を伸ばした。

   ◇

「なんで、あんな親に宛てるような手紙なの、」
 凜一がようやくそう千迅に訊ねたのは、風呂に入り、髪を乾かし、ベッドに横になってからだった。凜一の隣で目覚まし時計の設定をしていた千迅は怪訝そうな顏をする。
「勿論手紙を送ってくれることはうれしいよ。でも、あんな当たり障りのない手紙……、」
 凜一は子どもが駄々をこねているようだと思ったが、訊かずにはいられなかった。
 一方で、そう云われた千迅は些か面喰らう。先ほどまで千迅を翻弄した妖艶な凜一の姿はどこにもなく、枕に顔を埋めながら気まずそうに云うので、途惑った。
「いや……。あんな始終誰かが出入りする家で、恋文なんか送れるわけないだろう。あんた迂闊なところがあるし、男の直弟子からの付け文なんか見られた日にはお仕舞いだぜ。」
「え、それであんな手紙だったの、」
「それ以外何があるんだよ。」
「僕は、てっきり……、」
「てっきり、」
「……おまえは、あの夜のことを、なかったことにしたいのかと……、」
「はぁっ、」
 思いがけないことを云われた千迅の語尾は思わず上がる。
「あんた……、」
 まるで解っていない凜一に千迅は唖然とした。この男は年上の負い目からか師匠という立場からか、いつも千迅に対して一線を引く。師匠が弟子に抱く感情が罪深いというのなら、師匠に手を出した弟子の欲深さはどうなるのか。苛立った千迅は枕に埋まったその顔を強引に上向かせるが、思いがけず凜一の睛は不安に揺れていた。その顏を見た千迅は、云おうとしたことばを呑み込みその背に手を回す。千迅は大きく息を吸い込んだ。
「……俺は、まだ学生で、何もあんたに釣り合っていない。」
 抱擁された凜一は、急に態度を変えた千迅に困惑した。その抱擁は先ほどまで欲の先立つそれとは異なり、やわらかく、まるで小さな子どもを守るような抱擁だった。
「俺は、あんたの花が好きだ。流派のお偉方は気に入らないようだが、伝統を守るだけが家元の仕事ぢゃないだろう。」
 重なる胸から千迅の搏動が伝わった。早く、強い動悸が千迅の心情を凜一に伝える。
「俺の花は、あんたの父親に似ているんだろう。天海地流の本流だと云われた原岡晟先生の花に。」
 凜一の亡父である晟は生前、武家流派らしい堅牢さに叙情性を湛えた花を挿し、その技量から流派の本流と云われ、次期家元として誰もが期待する後継者だった。しかし持病の心臓病の急な悪化により、凜一が八歳の頃に早逝した。凜一は、千迅の花に父を見ていると、云ったことはない。云えるはずもなかった。けれど千迅は決然として云った。
「俺が、天海地流の花を継ぐ。誰がどう見ても天海地の花だと云わしめる、そういう花を挿す。」
 凜一の以外の者が訊けば、なんと大それた、身の程を知らずなと、眉を顰める発言だった。当然、それが解らない千迅ではないはずだ。
「だからあんたは、遠慮せずに自分の花を挿せばいい。頭の固い連中が文句を云えないところまで、貫け。」
 凜一の睛から、思わず泪がこぼれた。父と暮らした年月よりも、父を喪った年月の方が遙かに長くなっていた。父よりも早くに亡くなった母については元より記憶になく、父との思い出さえたった八歳で途切れた凜一には、無条件に庇護し、肯定してくれる存在は長らく持ち得ないものだった。
「千迅……、」
 もう随分と長い間、諦めてきた。泣いたところで慰めてくれる人はなく、惨めになるだけならばと気丈を信条にしてここまでやってきた。手に入らないものに焦がれても仕様がないと云い訊かせてきたが、いざ頬を伝う泪を拭ってくれる手が与えられれば、それまで抑えこんでいた感情があふれ出す。
「俺があんたの傍にいる。今はまだ足りないが、必ずあんたの隣に立てるようになる。」
 千迅の腕に力が籠もる。凜一は堪らず同じだけの力で千迅を抱き返した。どうしても欲しかった。けれど手に入れてもいいとは思っていなかった。手に入るとも思っていなかった。凜一にとって千迅は、そういう存在だった。
 夜はまだ深く、凜一は子どものように泣いた。千迅はそんな凜一の背をあやすように撫で、泣き疲れた凜一が眠っても、その躰を離さなかった。