※直接の描写はありませんが、このお話は「尋迅」です。苦手な方はご注意ください。
大学構内の木々が紅や黄に染まり、落葉する頃だった。九月に心身の均衡を崩し、実家で療養をしていた千尋が京都に戻って来た。大学では相変わらず紛争が続き、各学部の講義は停止したままだった。
鎌倉は、歳の離れた末っ子を京都に戻したくはなかったはずだ。他者との会話もままならないほど衰弱した息子が、なぜか郷里でも進学先でもない瀬戸内の田舎町の病院に担ぎ込まれ、入院していた。そんな寝耳に水の状況に事態の把握もできないまま駆けつけ、連れ帰った自宅で息ませること数ヶ月。ようやく本来の快活さを取り戻した次男坊が、学業に復帰しようにも進学先は再び万が一のことがあっても親の手が届かない京都であり、まして大学構内は不安定な情勢だ。何も京都に拘らなくともと、都心の大学を受け直すことさえ提案しただろ。異母弟にはそれだけの学力もある。
それでも千尋は膨らんだボストンバッグを提げて京都に戻ってきた。云い出せば聞かない性格は、彼が御殿山に居を移した少年期と変わらない。我が子の主張に抗しきれなかった実父が密かに千迅に連絡をしてくることは想定内だった。千迅は京都駅で千尋を出迎えた。
数ヶ月ぶりに逢う千尋は、改札の先に千迅を見つけると手を上げて微笑んだ。たったそれだけのことで、千迅は睛の前が滲み、吐き出す息が震えるのを感じた。
表向きは小椋家と絶縁している千迅が、鎌倉に戻った千尋と連絡を取る手段はない。気を回す実父が不定期に千尋の様子を知らせたが、聞くと見るとでは異母弟の回復に対する実感はまるで異なった。千迅は慌てて強く睛を瞑ると、顔を作り直して異母弟に向けて手を挙げた。
◇
京都に戻った千尋は、進学して来た頃に比べるとやや痩せた印象はあったが、千迅が最後に見た九月の蒼白の痕は見当たらず、本来の柔和で明朗な表情を浮かべ、健康的に朱の差した顏色をしていた。
「色々手間を掛けたな。」
千尋は、千迅と彷徨ったあの数日間のことをよく憶えていないと、事前に実父から聞いていた千迅はことば少なく頭振った。
「昼飯はどうする。まだだろう、」
戻ったばかりの千尋の下宿に、当然食料などない。千迅が暗に外へ食べに行く誘いを掛けると、異母弟は頷いた。意思の疎通は叶わず、水以外ほとんど口にしなかった千尋とまた連れ立って食事に行けることが、千迅にとってどれほどの悦びか、千尋が知る必要を感じてはいなかったが、どこの店に行くか愉しげに口にする異母弟に、千迅はようやく長かった九月が終わったのだと思った。
千尋が京都に戻ってから、千迅は千尋の下宿に二泊した後、自らの生活に戻った。講義がないとはいえ、生活費を自ら用立てる千迅はアルバイトに行かなくてはならず、転部した理学部の研究室への出入りもあった。異母弟も図書館通いを始め、大学生活の軌道を戻そうとしていた。それでも千迅と千尋の行き来は絶えず、千迅の夜のアルバイトが休みのときには夕飯を共にし、休みの合う日は連れ立って出掛けた。
そのため、千迅が千尋の違和感に気がつくのは早かった。
最初におかしいと思ったのは、千尋から千迅の知らない煙草の匂いがしたときだった。千尋に喫煙の習慣はない。大学生などそこら中で烟をふかしているし、喫茶店にでも入ればなおのことだ。移り香の理由はいくらでも説明をつけられるが、千迅は胸騒ぎがした。また別の日には、香水の匂いがした。茶道家の異母弟には人工的な香りを纏う趣味もない。ムスクの香りがした。異母弟には似合わない大人の男の香りだった。
千尋は長く義兄であった晟を思慕していた。一つ屋根の下で暮らす間もその想いを募らせていたが、だからといって一途にあったわけではなく、そのときどきに晟を想う心とは別の心で学校の上級生などと交際があったようだった。何より異母兄である千迅とも一線を越えた関係をもっている。そのため、京都に戻った千尋が千迅の知らない男と交際をしていてもおかしくはないのだが、それにしても男の影の変わりが早すぎた。
違和感を憶えながらも特段そのことに触れることはなく、やがて京都には底冷えがする冬が訪れた。
その日の千迅は教授の急用によりゼミの予定が中止となったために、空いた時間で千尋の下宿を訪ねることにした。ちょうど竹雄の養父から蜜柑が届いていた。
「千尋、」
紙袋を入れた蜜柑を提げた千迅は、千尋の下宿のドアを叩いた。冬の夕暮れは早く、辺りは既に薄闇だった。室内の電灯はついていない。留守かと思い、紙袋をドアノブに掛けようとするとノブが回った。
「千尋、いるのか、」
几帳面な弟が鍵を掛けずに出掛けることは考えにくい。寝ているのかと玄関先から室内を覗けば、人影があった。
「上がるぞ、」
電気もつけずに何をしているのかと思ったのも束の間、千迅はすぐに異母弟の異様な雰囲気に息を呑んだ。明かりもつけず、カーテンを引き、ひとりぼんやりと宙を眺める千尋に、千迅の紙袋を手にしていることも忘れて駆け寄った。重い音を立てて、紙袋はコンクリートの玄関に落ちる。
「……千迅、か、」
様子はおかしいが、千迅のことは認識しているようだった。まずはそのことに安堵するが、容赦なく千迅の脳裏では九月の千尋がフラッシュバックする。耳元では血管が切れそうなほど強く脈が打ち、頭の中は白く染まる。千迅は咄嗟に千尋の手を握った。いつも温かなその手は冷たく、暖房もつけずにいつからそうしていたのか、千迅は混乱した。
「なにやっているんだおまえ、電気ぐらいつけろ。風邪ひくぜ、」
震える声で平静を保つ千迅は、立ち上がって照明の紐を引こうとするが、千尋に思わぬ力で引き寄せられ唇を被せられる。なんの欲望も湧いていない千迅にとって、唐突なそれはただの粘膜の接触であり困惑する以外の何でもなかったが、千尋は執拗に千迅の咥内を舐り、千迅に色を灯そうとした。
「ね、しよう……。して……、」
媚びた云い様は、千迅の知る千尋の話し方ではなかった。
「千尋……、」
千尋の正気の在処を確かめるため、吐息のかかる距離で千迅は再度そう呼びかけるが、千尋は千迅にしなだれかかってその首元に腕を回す。千尋が京都に戻ってから、千迅が彼と同衾したことはなかった。
「……おまえ、他の男ともそうやって寝てるのか、」
千迅がそう問えば、薄闇の中で千尋の睛が虚ろった。
移り香は誰かとの密着を示唆していた。その上その香りは頻繁に変わる。変わるどころか、同じ香りがしたことはなかったかもしれない。そう思い至って、千迅はぼんやりと浮かんでいた千尋への違和感の答えに、気づかざるを得なかった。
「行きずりの相手なのか、」
確信を持って問えば、答えは沈黙で返った。千迅はさらに言い募ろうとするが、その気配を察した千尋は文字通り千迅の口を封じようと千迅に迫り、千迅は拒む。揉み合う弾みで千迅は千尋を押し倒した。
「おまえどうしたんだよ。なんでそんなことをしているんだ、」
薄闇に馴れた千迅の睛に、泪を流す千尋が映る。既に抵抗する力はなく、千迅の下で声も出さず泣いていた。千尋は云い繕うこともしなかった。
「今日、逢う、はず、だったのに、急に逢えないって、」
組み敷いた異母弟は、上はケーブル編みのセーターを着、下は部屋でくつろぐための緩いズボンを履いている。着替えの途中だったのか、よく見れば部屋の中も文具や本が散乱し、異母弟らしからぬ状態だった。
「……どうしたら、いいの、か、わからない、」
聡明な異母弟らしからぬ震える声だった。子どもが云い訳をするような辿々しさが痛々しかった。
「あ、きらせん、せ……、」
千尋の孤独と虚無が、闇に溶けて千迅をも絡め取る。虫一つ鳴かない冬の静けさと冷たさが、余白を許さず狭い部屋で膠着するふたりを追い詰める。
千尋と晟は、仲違いをしたままの別れとなった。千尋が晟を慮って選んだ行動を、晟は決して許さなかった。許されないままの唐突な別れは、千尋の心に一層深い傷をつくり、遂にはその正気を失わせた。
「だから、だれ彼構わず、寝ているっていうのか、」
畳に縫い止めた千尋の手首を、千迅はさらに強く握った。答えられない千尋は千迅から睛を逸らす。こんなことは一種の自傷行為だ。相手任せの快楽に、自ら溺れることを望んで身を晒す。手酷くあれば罰になるとでもいうのだろうか。
「だから、ちはや、ねえ……、」
当てがなくなったので、手近なものに手を伸ばして紛らわす。千尋が千迅に求めていることは、つまりそういうことだった。
「うわ……っ、」
千尋が驚きの声を上げる。上にいた千迅が、掴んでいた千尋の腕ごと引いて、後ろに倒れたからだ。千尋が千迅の上に乗り上げる形になる。
「どうしても俺と寝たいと云うなら、抱いてみろよ。」
千迅は苛立ちを隠さずに云った。異母弟の自傷行為に付き合う気などさらさらなかった。縋る手を撥ねつけて、虚に漂う異母弟を張り飛ばす。
動揺する異母弟の顔が、いつかのように蒼白だったその顏が、徐々に千迅のよく知る千尋の顔に戻っていく。
千尋の九月はまだ終わっていない。闇の先にそう知った千迅は、異母弟の手を離さず、じっとその顔を見つめた。