線を越える

※直弟子の英千迅(18)×若先生の原岡凜一(31)の立場年齢逆転パロです。
千迅さんが中学三年生の頃から始まります。

 

 

 凜一がその花を見たのは、家元である祖母と中国地方支部の華道展の視察に行ったときのことだった。 その華道展は、百貨店の催事場を借り切って行われ、会期は一期から三期の合計五日間に渡り、出展作品も三百を超える大規模な華道展だった。家元が支部長と懇談をしている間に凜一は自由に花を見て回った。
 大学卒業後、本格的に家業に携わるようになった凜一は、家元に随行して全国を回ることにもすっかり馴れ、各支部では若先生として指導をすることも少なくなかった。この日も会場に詰めていた門下生に指導を請われる。指導をすること自体は務めであり吝かないことだったが、凜一の指導に女性は「期待」を滲ませ、男性は「侮り」を隠し持つことは往々にしてあり、凜一は辟易とする気持ちのやり場をまだ上手く持てずにいた。
 凜一は手短な指導をしながら簡易のパーテーションで区切られた会場を順路に沿って進んで行く。支部の幹部が凜一に付き、各教室や挿された花について解説をした。次期家元である凜一への値踏みの視線は、高位の門弟になるほどに顕著で、凜一はおもねりとも厭味とも取れる幹部の話を適度に聞き流しながら見て回っていた。
 今回の華道展は通常の展示に加え、学生作品をまとめて展示するコーナーが設けられており、まもなくその一角に足を踏み入れる。小学生から大学生までの作品が一同に並ぶ。子どもや若者ならではの素直で溌剌とした作品は、薄く倦む凜一の心を和ませた。微笑ましい気持ちで一作一作に睛を向けていると、ある作品の前で凜一の足は止まった。
「この花……、」
 上擦る声を押さえつけつつ、凜一は支部の幹部に訊ねた。初めて反応らしい反応を返した凜一に、付き添う幹部がしげしげと花札を覗くと、「ああ」と得心した声を洩らす。
「竹雄支部の子ですね。この年代では珍しく男の子なんですよ。確かまだ会場にいるはずですよ。」
 彼は辺りを見回すと、会場の隅にいた子どもを手招きする。凜一はその間も動悸が逸るのを止められなかった。
「竹雄支部の英くんです。」
 呼ばれて凜一の前にやって来たのは、理知的な面立ちをしたカッターシャツの中学生だった。身長はまだ凜一よりもわずかに低いが、中学生でこの背ならば、長身の部類に入る凜一よりも背丈が伸びそうだった。
「英千迅です。中学三年です。」
 なぜ自分が呼ばれたのか見当もつかない。彼はそんな顏をしていた。
「君が……、この花を、」
「はい。」
 凜一は、怪訝な顏をする少年を凝視する。
 この子どもが本当に。そんな疑いが顔に出てはいないか気にすることができるような余裕は、このときの凜一にはなかった。
 その花は、凜一の亡き父の花に瓜二つだった。
「ずっと竹雄支部で、」
「はい。」
「彼の母親は山口支部の幹部の縁者なんですよ。」
「母はもう亡くなっていますが。」
 英千迅と名乗った少年は、幹部の説明に控えめに補足をした。落ち着きのある子どもだった。彼の花は、とても中学三年生の挿す花とは思えなかった。
「この花の構想は、」
 父の花に瓜二つとは云っても、生前に父である晟の挿したそのままの姿ではない。俤があるのだ。いつか見たような、あるいは父ならばこう挿したのではないかという俤が、彼の挿した夕顔にはあった。
「過去の流派の作品を研究しました。……原岡、晟先生の花を参考に……、」
 千迅は僅かに云い淀みながら答えた。晟が凜一の父であることは承知なのだろう。その辺りのことが、何か若先生の癇に障ったのではないか。千迅はそう思案するような顔をしていた。
「いや……。よく挿せている。この調子で精進しなさい。」
 凜一は取り乱した心を悟られないよう、なんとか表情を取り繕った。千迅は凜一のことばでようやく緊張が解けたように、ほっとした顏で頭を下げた。
「まだ中学生なのですが、歳の割に達者で。この春に師範となりました。」
 千迅が去った後、幹部は凜一に加えて説明した。凜一は一度睛を伏せ、深く息を吐いた。
 幼少期に死別した父が帰って来たのかと、人目がなければ叫び出したいほど、あの子どもが挿した 花は、凜一にとって父の花そのものだった。
 英千迅。
 凜一はこのときから、その子どものことが、頭から離れなくなった。

   ◇

 凜一が夏の支部の華道展で、千迅のことを知ってから迎えた四月。御殿山の原岡家には、新たな内弟子となった千迅の姿があった。折り目もまだついていない真新しい高校の制服に袖を通していた。
「凜一先生。今日という日を無事迎えられたこと、先生始め流派の皆様のお蔭です。誠にありがとう ございます。」
 自室で書き物をする凜一に、畳一枚を挟んで千迅は手をついて頭を下げた。
「うん。」
 凜一は筆を置いて振り返る。千迅の制服は、凜一も、凜一の父晟も通った一領学園の制服だ。一領学園は都内有数の進学校である。中高一貫校ではあるが、高等部への入学試験も実施されている。しかしその合格定員はごく少数で、狭き門だ。この極めて難しい試験に、千迅はこの春合格していた。
夏に千迅の花を見て以来、凜一は千迅の身辺について調査を進めた。彼の暮らす竹雄は過疎の進む瀬戸内海の町であること、没した母親は確か山口支部の幹部の縁者であること、共に暮らす父親は養父であり血縁関係はないこと、花は母親の手解きで幼少期より始め、どの支部の関係者に訊ねてもその才は太鼓判であること。
 本人の気質も年齢の割にごく落ち着いた様子で思慮深く、文武に優れ特に学業は非常に優秀であるという。友人関係も良好で、ふたり暮らしの養父をよく支えているとのことだった。
 これらの調査結果を得た凜一は決めた。
「内弟子に取りたい門弟がいるのですが。」
 夏が終わるよりも早く、凜一は家元にそう切り出した。
家元からすれば凜一の申し出は家寝耳に水であり、流派の高弟も騒然とさせた。子どもの思いつきにも等しいその提案を、当然家元は一顧だにせず撥ねつけたが、凜一はこれまでにない粘りで交渉し続けた。
 家元との話がまとまりきらないまま、凜一は英家にも打診をした。凜一は急いでいた。千迅は中学三年生だった。東京の高校を受験させ、御殿山から通わせたいと考えていた。
千迅を内弟子に取る場合、学費、生活費の一切は天海地流で面倒をみることを英家に申し出た。将来の天海地流を担う門弟となることを期待してのことだと、まずは千迅の養父を説得する。例え家元からの許可が下りなくとも、凜一は個人の資産で千迅の面倒をみる覚悟だった。
 凜一の急な申し出に、困惑するのは英家も同じだった。当初は婉曲に断り続けていた養父も、凜一が何度となく竹雄を訪ねるうち態度を軟化させていった。内弟子となれば、都内の教育を受けさせられるということが養父の心に響いたようだった。できのよい息子により高度な教育を受けさせてやりたいという親心に、凜一の訴えが効いた。
 千迅本人も、当初は想定もしない話に途惑い、養父を置いて家を出ることを逡巡していたが、その養父から熱心に勧められればやがては頷いた。
 問題は家元だった。ただでさえ凜一が急速に進めることに加え、かつては瀬戸内地方を本拠地とした天海地流の旧勢力と血縁のある千迅を、内弟子とすることに気が進まない様子だった。
 凜一は、彼の母親は既に没しており影響力は少ないこと、旧勢力の盛り返しを危険視するならば、なおのこと先手をとり千迅をこちらに取り込むことを主張した。千迅の才は、竹雄支部は勿論、中国地方を束ねる地方支部長のお墨付きでもある。遅かれ早かれ頭角を表すことは明らかだった。
 家元が何を云おうと凜一が強く主張するため、とうとう家元が折れた。けれどそれは凜一の説得に納得したわけではなく、千迅の花を見たからだろう。実力に嘘がなければ家元とてひとりの華道家である。あるいは、家元は何も云わなかったが、凜一と同じように千迅の花に、心臓の病で亡くした息子の姿を見たのかもしれなかった。
だが、家元もただで頷いたわけではなかった。千迅を内弟子に取る条件として、一領学園高等部への合格を提示した。冬が訪れようとしていた。
「単に内弟子に取るのではなく、将来的に流派の幹部として考えているのならば、周囲を納得させるだけの力量を見せていただかなければ困ります。」
 凜一の訴えを逆手にした条件だった。凜一は何も返すことができなかった。すぐさま英家に向かい、家元が出した内弟子にとる条件を伝えると、養父は溜息をつき眉ねを寄せた。受験まで数ヶ月を切っていた。一領学園は都内指折りの難関校ある上、私立高校であるため試験問題にも癖がある。今から受験を目指す困難は誰の睛にも明らかだった。
「やります。」
 大人が意気消沈としている中、短く云い切ったのは千迅だった。その睛に怯みはなかった。
「家元は、ここで合格できなければ内弟子の話はなしだと云っている。だが、ここで一領の受験に舵を切れば、君の進路に障りがあるかもしれない。どこの高校にも受からなかったということにもなれば、お父上にも申し開きできない。」
 これまで無茶に無茶を重ねてきた凜一の気弱なことばに、千迅は「今更そんなことを云うんですか。」と小さく笑った。
「やってみます。骨のある問題を解くのは厭いぢゃないので。」
 千迅はそう云うと、凜一が念のため持参していた一領学園の過去問を手に取ると、自室に戻っていった。
「あの子は、やると云ったことはやりますので。」
 息子の気質を理解する養父の一言で、この無謀な賭けは実施されることとなった。結果がどうなるかは誰にも解らなかった。

 早春、千迅は地元の公立高校と一領学園を共に受験し、どちらの合格も勝ち取った。
「この日を迎えられたのは、凜一先生のご助力のお蔭です。」
「受験勉強に関しては、私は何もしていないよ。よくこの短期間で合格したね。」
 凜一の労いに千迅はもう一度頭を下げた。一領学園に合格した千迅に、家元は約束どおり内弟子となることを許可した。千迅は慌ただしい荷造りで竹雄を離れ、御殿山の原岡家に居室を与えられると、息つく暇なく入学式を迎えていた。
「お父上を東京駅までお迎えして、私も入学式に出席する。気をつけて向かいなさい。」
「ご面倒をお掛けしますが、よろしくお願いいたします。」
千迅は折り目正しさを崩さないまま、凜一の居室から下がった。まもなく玄関戸を引く音がし、彼が学校に向かったことが知れた。
 千迅が原岡家に越してから二週間が経った。東京の門弟からすれば、田舎から若先生が気紛れに連れ帰ったどこの馬の骨とも知れない子どもである。礼儀作法が重んじられる芸事の世界では、まずは片親であることから誹り始めようかと門下生たちは手ぐすねを引いていたが、案に相違して千迅の振る舞いには咎め立てる瑕疵は見当たらなかった。機を見て動き、不明は訊ね、稽古の準備片付けまで率先すれば、家事に至るまでよく働くためむしろ評判は上々で、当初はいい顔をしていなかった家元の覚えも悪くはないようであった。
「根を詰めさせているだろうか。」
 自室の腰窓から、出掛けて行く千迅の後ろ姿を見送りながら、凜一はつぶやく。無茶を云い、千迅の人生を大きく変えたのは凜一に他ならない。
 どうしても千迅を手元に置きたい。
 その一心で、凜一はこの半年あまり動いてきた。きっかけは、確かに父を彷彿とさせる花だった。八歳で父を亡くした凜一は、未だに父を慕う気持ちを消すことができない。あの花を見たときに、挿した人物に強烈に心を奪われるのは仕様がない。凜一は自分自身の心の動きをそう思っていた。
だが、千迅を上京させるために幾度も顏を合わせ、こうして千迅を御殿山に迎えられた今、凜一は自分の内に宿る真っ当ではない衝動を自覚せざるを得なかった。
 千迅が欲しい。
 十三も歳の離れた、それも高校生になったばかりの子どもに、凜一は尋常ならざる欲を抱いていた。
「僕は間違っていただろか……、」
 その欲望は千迅と暮らすごとに膨らんでいった。愛想こそないがそれは思春期の男子であれば特段の無愛想などではなく、凜一の仕事にもよく気がつき、出過ぎることなくよく手伝った。
背が伸びるだろうという夏の予測は当たり、受験を終え、久々に顏を合わせた千迅の目線は凜一のそれと同じ高さにあった。
 背丈を超されたい。圧倒されたい。
 十三も年若い子どもに父の俤を感じ、それ以上の欲求を憶える異常に、凜一自身が震撼としていた。
「家のことをしていたので部活には入っていませんでしたが、躰を動かすのは好きで。」
 そう云って、越してきた日の翌早朝から千迅は近所を走ることを日課としていた。服の上からもその躰には若く引き締まった筋肉があることがうかがえた。慢性気管支炎のため、学生時代から十分な運動を経験できなかった凜一とは真逆の躰つきだった。
 凜一は異性に対してそうした衝動は憶えない。もっぱら同性相手に魅了される。その性分は跡取りを必要とする家業には致命的で、二十八歳になる現在までどうにか婚姻の話を断り続けているが、それも段々と苦しい年齢となってきた。
 結婚をするつもりはない。まして子を成すつもりなど。
 誰に云えるわけでもなくそう決めていた凜一だが、流派の行く末には責任が生じる立場だった。どこかに筋のいい子どもがいないか。養子にとり、凜一の跡を任せられる人材がいないかと、そう探すようになっていた。
 家元の地方視察に積極的に同行するのは、なにも家元修行のためだけではない。思い立ってから三年で、ようやく凜一の理想に叶う子どもが現れたが、まさかその子どもに凜一自身があってはならない衝動に襲われるなど想定外だった。同性にしか惹かれないとはいえ、子どもに関心をもつことなど一度としてなかった。
「せめて君の道が、平らであるようにしないといけないね……。」
 角を曲がり、見えなくなった千迅の後ろ姿に凜一はひとりごちる。千迅の人生を大きく変えたのは凜一だ。その責任は取らなければならない。凜一は裡で静かに燃える衝動に蓋をして、師に徹することを密かに誓った。

   ◇

 千迅が御殿山で暮らして三年が経った。三月もまもなく末だった。三年前、御殿山に越してきたときよりは些か増えた荷物を、千迅は纏めていた。明日、千迅は京都に旅立つ。
 一領学園で三年を過ごした千迅は、高等部からの編入生の立場でありながらも、秀才揃いの学園で一貫してトップの成績を収め続け、この春よりK大の医学部に進学することが決まっていた。晟、凜一ともにK大の卒業生だ。その進路に家元はおろか、門弟の誰一人として批判できる者はいなかった。
「これまで、本当にお世話になりました。」
 月が傾く頃、寝巻の浴衣姿の千迅が、凜一の居室を訪ねてきた。この三年変わることのなかった畳一枚分の距離で、千迅は頭を下げた。
「顏をあげなさい。すべて千迅の努力によるものだよ。」
 顔をあげた千迅を正面から見つめた凜一は、思わず見惚れるところだった。千迅は精悍な顔立ちの容姿のいい男に育っていた。
 十五歳から三年間、親元を離れ、制限も多く決して居心地のよい暮らしではなかっただろうに、辛抱強く内弟子を続けた千迅は、容易には揺るがない精神力を培い、研鑽を重ねた稽古の成果は高弟の間でも認められ、大学進学後、落ち着いた頃に教授格の試験を受けることになっていた。受験勉強で花の稽古は半ば中断した形となったが、既に十分な実力が千迅には備わっていた。
「私が強く君を望んだばかりに、しなくてもよい苦労をさせたね。」
 この三年間を振り返った凜一には、千迅に詫びる気持ちがあった。
 凜一の流派での立場は、決して盤石なものではなかった。感傷に拘泥することをよしとせず、花は花であることの美しさを表現すべきと詩情を廃して、そこに挿し手の感情を乗せるべきではない。そんな凜一の哲学は、流派内で賛同を得られるものではなかった。
 凜一先生のご贔屓。若先生のお気に入り。立場の確立していない凜一の直弟子という立場は、千迅には重荷だったに違いない。そうした流言は凜一本人の耳に入ることはなかったが、囁かれていたことは想像に難くなく、千迅自身に対する陰湿な行為もあったかもしれない。けれど千迅はこの三年、凜一には泣き言ひとつこぼさなかった。
「君は私が思っていた以上に、よくやってくれたよ。」
 凜一の直弟子であったためにスタートラインが大幅に後ろに引かれた状態でありながら、高弟たちを納得させるだけの稽古を積み、学業でも優れた結果を出した千迅は、凜一にはできすぎた弟子だった。御殿山に越してきたときにはまだ幾ばくか残っていたあどけなさも、すっかりと削ぎ落とされた千迅の顏は、これから巣立つ若鳥に相応しかった。
 高校三年生になったばかりの頃の千迅がK大を受けると云ったとき、凜一は強い衝撃を受けたが、今となってはそれでよかったと思っていた。これ以上手の届くところに千迅を置いておいて、知られるわけにはいかない劣情を隠しおおせる気がしなかった。
「……お傍へ寄っても、」
 それまで黙っていた千迅が徐に口を開く。凜一は感傷も手伝って深く考えることなく頷いた。これまでふたりの間にあった師匠と弟子の線を、千迅が越えたことに凜一は気づかない。千迅が凜一の膝とつき合わせるところまで距離を詰めて、初めて凜一は違和を憶えた。
「先生、」
 千迅の手が、凜一の指に、触れた。
「凜一先生、」
 千迅の睛が凜一を射貫く。何かがおかしい。千迅の異変に途惑う凜一が後ずされば、すかさず千迅は間合いを詰める。何度かそれを繰り返した末に壁際に追い込まれた凜一は、檻のように前に塞がる千迅に混乱した。
「あなたは、俺が京都に行っても平気なんですか、」
 凜一と話すとき、千迅は一貫して「僕」という一人称を使用していた。
「俺が何のためにK大に行くのか、何のためにこの三年、行儀のいい内弟子をしていたのか、あんたは考えたことがあるか、」
 千迅の口調が粗雑になる。訳がわからなかった。千迅は常に従順で賢く、控えめで、出過ぎたところのない、大人しい子どものはずだった。
「千迅……、」
「それが一番早かったからだ。周囲に認めさせてしまえば、簡単には俺を排除できないだろう。」
「どうして……、」
 そんなことを。凜一には見当もつかなかった。豹変した千迅は、凜一のまるで知らない顏をしていた。
 誰だこの男は。ちっとも知らない。凜一の混乱に拍車がかかる。
 窓外では月が翳る。風が僅かに窓を揺らす。開け放つにはまだ肌寒い春の夜だった。
「あんた、どんな睛で俺のことを見ていたか、知っていたか、」
 千迅のその指摘に、凜一は冷や汗が流れた。心臓が大きく脈を打つ。知られていた。何があっても知られてはならない凜一の欲望を、よりにもよって千迅は知っていた。
「厭、違う……そんなんぢゃ……、」
「睛は口ほどに物を云う。そういう睛だったぜ。」
 凜一が必死に否定しても、確信のある千迅は揺るがない。とても誤魔化せそうにはなかった。身動きもできず、長く沈黙した後、凜一の震える唇を開く。
「すまなかった……。君に……、何かを望んでいたわけぢゃない。君の花を伸ばすことと、人生が開ければと……。本当にそれだけなんだ……。」
 師匠に色目で見られていた。千迅の立場から端的に云えば、そういうことである。それもまだ子どものうちから。凜一は詫び入る気持ちと、恥じ入る気持ちがない交ぜとなり、千迅の睛を見ることができなかった。
 一方で、咎められている今でさえ、間近に迫った千迅の均整の取れた躰に凜一は熱を持て余す。度し難かった。凜一は、無理に千迅を手元に置いた己の過ちを痛感した。
「俺は、待っていたんだ……。」
 顏をあげられない凜一に、意外にも千迅は静かな声で語りかけた。
「俺があんたより十三も下の子どもなのは変えようがない。まして吹けば飛ぶような地方支部の、取るに足らない門下生だ。次期家元に引っ張り上げられたって、それだけぢゃ先は知れている。」
「千迅……、」
 思わず凜一は千迅の顔を見た。千迅が何を云おうとしているのか、予測がつかなかった。
「あの三年前の夏、あんたが俺を見つけるより先に、俺はあんたを見ていたんだ。本当なら手なんか   届くはずなかったのに、あんたが俺を拾うから。責任をとれよ。あんたが全部始めたんだろう。」
 強く抱擁されて、凜一は息ができなかった。凜一よりも遙かに力強い腕が、凜一を捕らえて放さない。浴衣で隔てられてなお、肌の熱さが伝わった。そうされたいと、夢で何度希ったか解らない。
「あんたが俺を強く望んだのだというなら、云えよ。本当は、俺の何が欲しいんだよ。」
「……千迅が欲しい。おまえのすべてが。おまえの心も、何もかも、すべて僕のものにしてしまいたい……、」
 凜一の睛からは大粒の泪がこぼれた。それは胸に秘め、ただの一度も唇に乗せたことのない希いだった。その想いには形を与えず、できる限り凜一の中心から遠ざけてきた。一度表に出してしまえば、抑えなど利くはずがない。
「もうとっくに、俺のすべてはあんたのものだ。あんたの傍にいるためなら、なんだってやってみせる。」
「厭だ……。どうして京都に行くんだ。止めればよかった。おまえのこと、この家に、縛り付けて、外になど出さなければ……、」
「凜一、」
 子どものように千迅の胸で泣く凜一を、千迅はそう呼んだ。驚いた凜一が顏を上げれば、逃れる間もなく唇を被せられた。凜一は息ができないまま、睛を閉じて千迅の熱を感じた。始めは凜一の形を確かめる様子だった千迅は、やがて強く深く凜一を求めた。脇の小机の筆が転がった。堪らなくなった凜一が千迅の背に腕を回そうと身じろげば、泣きそうな顔をした千迅が微笑むので、凜一はすべての力を抜いて千迅に身を委ねた。
「俺は、あんたの傍にいて相応の大人になるから。だから……、」
 待っていてくれと云わないのが、千迅の聡さだとは思った。千迅は、自身が凜一の傍に居続けることの困難を理解していた。凜一もまた、千迅を傍に置き続けるためには果たさなければならない重責があることを自覚している。
 先のことは解らない。確かなことなど何もない。ただ、春の夜のしんと冷えた空気の中で燃える熱だけが、ふたりにとってすべてだった。