『天上の花』 監督 片嶋 一貴 2022年
原作は萩原朔太郎の姪の萩原葉子著『天上の花』より、三好達治と朔太郎の妹だったアイが新潟県三国市で暮らした八ヶ月についての小説。達治の半生と原作小説とこの映画と、それぞれ何がどのように脚色しているのかは把握していないので、映画についての感想のみつらつらと。
このアイさんは映画では慶子(役:入山法子)さんという役名になっているんですが、達治(役:東出昌大)と慶子さんの三国での生活については、達治も書き残したり誰かに話したりとかもしていないらしいので、この映画は色々と脚色をしていると考えた方がよいようですが、ある程度は実際の半生を踏襲しているようです。
というのもこの映画では、達治は一目惚れして16年4ヶ月、ようやく一緒になった慶子さんことを殴るようになるので。これどこまで本当の話なの?とちょっとハラハラしながら観ることになります。
達治は夫と死別した慶子さんを、師匠である朔太郎の三回忌の場で口説くというとんでもなくヤバいやつなんですが、達治はこのとき所帯持ち。ヤバい×ヤバいでもう役満です。自己の欲求に忠実で人の気持ちをないがしろにする類いのマッドな男の役をやらせたら東出さんは満点ですね。
特に妻の智恵子に離婚届にサインを書いてもらったらご褒美を貰えた子どもみたいな喜び方をするんですが、これが本当にマッド。人の心がない。実は法事の場で慶子さんを口説くのと智恵子さんに離婚届にサイン貰うのは映画の最終盤で明らかになるシーンなんですが、ここに至るまでに慶子さんことを何回も殴って何回も謝ってというDV夫のジェットコースターメンタルを散々に見せつけられているので、達治の異様さが際立つ恐怖でしかない場面、秀逸です。
パンフレットを読んでいると、達治と慶子の夫婦が上手くいかなかったのは、片や町の印刷工場の倅、片や富豪のお嬢様で、そもそもの育ちが違うので生活文化が異なる上に、達治の陸軍幼年学校卒業・士官学校中退という軍人上がりの経歴から、奔放でちゃんとしていない慶子を「ちゃんとしてあげたい」「教育することは愛」という想いから慶子を殴るようになるという解釈だったんですが、この慶子さんの「奔放」「ちゃんとしていない」というのが、まあ現代の価値観からみると何がそんなに奔放なの?という感じで。
映画を観る限りの慶子さんの奔放は、家事はしません・自己主張します・夜はちょっと積極的です、ぐらいのもので浮気したりお金を使い込んだりするわけでもないので(そもそも経済DVで結局家事はやっている)、これが奔放というなら、本当女に権利のない時代だと思わざるおえないですね……。つら……。
殴られた慶子が逃げこんだ家の達治の芸術仲間の奥さんにも「三好先生も慶子さんを愛しているけど言葉にならずもどかしいのよ」と宥められるんですけど、すぐさま「三好は詩人でしょう。詩人が言葉で愛を伝えずどうするの」(うろ覚え)と啖呵切るところは本当にかっこよかったです。慶子さんのおっしゃる通りすぎるんですよね。
この映画は慶子さんを安直にファムファタルにしていないのがよかったと思うので(達治にとってはそうだけど慶子さんは抵抗していたので)、プログラムの対談や座談会ではもっと彼女について話しているのを読みたかったですね。
元々達治のベタ惚れから始まった夫婦関係なので、最初からふたりの間には温度差があるんだけど、慶子さん別に高慢な女じゃないし、夫婦として暮らすならと慶子さんも歩み寄るんだけど、それが達治の規範に合わないといちいち撥ねつけられるので慶子さんもカチンとくるわけで。
こんなにも慶子のことを愛しているのに!というのが達治の見ている世界なんだけど、理想の慶子さんじゃないとシャットアウトしているのは達治の方なので、あまり同情できない感じです。そんな感じなら慶子さんだって前の夫の方がよかったって何度でも言いますわ……。
だからやっと慶子さんが出て行けたときに、二階から見下ろして「1万円あげれば出て行かないかい」と問いかけるのシーンは本当にぞっとする場面でした。離婚届けに大はしゃぎするのと、この1万円、本当どうかしている……。
だから達治が亡くなった後の、慶子さんが返してもらえなかった着物が戻ってくるシーンで、慶子さんは泣くか泣かないかを監督と入山さんは相当議論して、どちらのバージョンも撮影して、泣かない場面が採用されたとのことなんですが、慶子さんは絶対泣かないよ。達治をを想って泣くことはないだろうし、とっくに諦めていただろう着物そのものへの感傷も乾いているだろうし。泣いてたらそれまでの暴力まで全部有耶無耶になって美談になりそうなので、あの場面は泣いていなくて本当によかったです。