紫色の朝

※こちらは『彼等』の千迅さんの台詞の中でだけ登場する、千迅さんの予備校講師時代の同僚氏とのお話です。

     ◇

 どうしてこうなったのか解らない。
 英とは元々、勤務先の予備校の同僚だった。私立文系コースで英語を担当する俺とは異なり、国公立の理系コースで数学を担当していた。担当科目もコースも異なることからそれほど接触があったわけではなかったが、学年が同じであることが解ってからは他の同僚よりも親しく口をきくようになった。とはいえ、業務が夜間まで続く予備校では、仕事上がりに呑みに行くなどということは滅多になく、あくまで職場の中では、という但し書きのつく親しさだった。
 そうして数年、後から入社した英が先に退職した。予備校の講師は入れ替わりが激しいため、そのこと自体は珍しいことでもない。英もここに長く勤めるタイプには見えなかったから、親しくなった同僚が職場を去るのは淋しいと思いこそすれ、特段の違和感もなかった。
 送別会の後、親しかった同僚同士で二次会を催し、その後気づけば何軒目かの飲み屋で英とサシで呑んでいた。何を話したかは覚えていない。ただ、矢鱈と愉しい気分になっていたことだけははっきりと記憶していた。
 以来、俺の休みに合せて英と呑むようになった。気づけばヤツは俺の部屋の合鍵を持っていた。急に訪ねて来ることもあれば、家主不在のまま部屋に上がり込んで俺のベッドに寝ていることもあった。英との交流はまるで学生時代に戻ったかのようで心地よかった。いつの間にか家主よりも勝手を知った台所で飯の用意をしてくれることもあった。料理まで上手いのだから堪らない。
「おまえできないことはないのか、」
 飯の旨さに呻りながら冗談交じりに訊ねれば、
「予備校の講師、」
 と人を喰った答えが返ってくる。
 そんな日々の繰り返しで、だらだらと部屋で呑みながら他愛のないことを話して寝落ちするのが常だった。
 だから今、なぜ英とキスをしているのかさっぱり解らなかった。いつものように俺の部屋で、英の拵えた夕飯を喰いながら酒を呑んでいた。
 退職しから二種免許を取りに行っているという英の話や、俺が恋人と別れたという話をしたような気もする。酒のせいなのかキスのせいなのか、ふわふわとする頭では思考は論理を思い出しもしない。どうしてこうなったのかは解らなかったが、キスが矢鱈と気持ちがよくて、まずいことは薄々感じていたが、止めることができない。
 いやそもそもなにがまずいんだ。俺は恋人と別れたところだし、英にそうした相手がいるということも聞いたことがない。ぢゃあいいのか。困ることは何もない。ただ互いに男だというだけだ。それもこのキスの気持ちよさの前にはさしたる問題だとも思われない。
 唇だけが触れ合っていた。探るように短く、段々と長く、英の息が洩れた隙に、その口の中に舌を捻じ込んだのは俺だ。床についていた俺の手に英が触れたから、もうなりふりを構っていられなくなって抱き寄せた。
 英は抵抗もなく俺の腕の中に納まる。どうしてされるがままになるんだと思いながらも、興奮は一気に高まった。
 英が反応している。躰の距離が縮まれば互いの様子など筒抜けだ。俺も兆していることは彼にはバレている。それが解ってもどちらもキスを止めようとしない。俺が抱き寄せた英の腰を洋服越しに撫でると、英はキスをしながら小さく震えた。
 もうだめだった。俺は英の脇に腕を入れて強引に立たせると、すぐ後ろのベッドに押し倒した。すると英はやっぱり素直に倒される。上からその顏を覗き込むと、物欲しげにゆっくりと息をする唇があり、熱を帯びた睛が見返してくるので、もうどうしようもなくなって、英に覆い被さってキスをした。
 男としては細い躰を掻き抱いて、シャツの下の肌を暴く。英は俺の首筋に指を滑らせて、思わせぶりに指先を滑らせる。細いとはいっても躰は間違いなく男のそれで、骨張り、筋肉をまとって固い。      それにも拘わらず、俺の欲望は昂ぶるのだからどうしようもない。
 ではどうすればいいのか解らず途惑った。もう英の躰の表面で、触れていないところなど、どこにもないのに。
「莫迦だな。男はここを使うんだよ。」
 そんな途惑いを見透かしたように、俺は英の手に掴まれて導かれる。
「あとは女を抱くようにすればいい。」
 そう云った彼の顔も欲望に濡れていて、俺の指がその中を開くのを待ち詫びているようだった。上気して洩らす息には熱がこもり、もう少しも待てないと訴えていた。
 この男と一層深く耽溺できる悦びと、男を受け入れることに狎れた様子がチリチリと胸を焼く。同僚だった男の知らなかった姿態に睛が眩んで、あとはもう誘われるままだった。

     ◇

 睛が醒めると隣はものけの空だった。一瞬夢かと疑うが、ふわりと秋めいた風が肌を撫でる。風の流れに睛を遣れば、ベランダの窓を開け放して英が煙草を喫っていた。空はまだ紫色で朝と夜の気配が交じり合う。シャツを羽織った英はいつも通りの彼で、あられもなく乱れた夜の顏は完全に消し去っていた。
「起きたのか。」
 俺の視線に気づいた英が柔く笑う。
「少し早いが、飯でも喰うか。」
 ベランダの灰皿に煙草を押しつけた英は、ベッドで横になったままの俺を横切り、台所に向かう。
 なかったことにするのか、それとも――。今ならまだ選択ができる。朝食が出来上がるまでに答えが出せるかは、やはり俺には解らなかった。

2023年10月7日