夜の底

※千迅さんは異母弟のことも打つのか考えてみました。

 雲に遮られてなお白銀の光は夜天を明るくしていた。満月の光は柔らかくも輝きが濃い。雲は月光によって生じた影のように薄暗く、丸い月に寄り添っていた。
「……んっ……、」
 静かな夜陰に吐息がこぼれる。苦悶に似た声は痛みを堪えるかのごとく喉元から絞り出されるが、表情を見ればそれが苦痛ではないことはすぐに知れる。
「顔を隠すな。見せてみろ。」
 腕を額の上で交差させる異母弟に千迅は囁く。まだ正気を失う手前だった。自意識が羞恥の想いを忘れさせない。千尋は緩く頭を振って千迅のことばを拒む。ことばが継げないことは、溺れる手前のことではあるけれど。
「顔を隠すのは結構だが、こっちの方がよほど含羞しいんぢゃないのか。」
 千迅は殊更に千尋の羞恥を煽る。千迅のことばに反応して千尋の中が強く窄まると声を上げて笑った。
「ちはやのばか……、」
 舌足らずに云返すそれは千迅には睦言でしかない。千迅は白い光を遮って異母弟にキスをする。
 九月は千尋にとって過ごし難い月だった。晟が逝き、激しく心身のバランスを崩したあの残暑の日以降、何度この月を迎えても千尋の心は黄昏に沈んだ。千迅はあの日握った手が忘れられず、千尋の傍にいる。どこに行けばいいのかも解らず、心細く、ただ手を握ることしかできなかった、あの日。
「ほら。全部忘れて悦くなれよ、」
 千迅の云うそれは真実そのままの意味だった。晟と仲違いをしたままだったことも、何も云えずそのまま別れることになったことも、その死後の大きすぎる喪失も、何もかも忘れて躰の快楽だけを追えばいい。
「あ……っ、あぁ……、」
 千尋は半身に捻ってシーツを掴む。その睛からは泪がこぼれて白い布をじわりと濡らす。千迅は逃げを打つ腰を掴んで逃がさない。千尋の中心を貫いて少しずつ、奥へ奥へと中を抉って進んで行く。
「ほら、顏を見せろ、」
 千尋の腕を掴んで仰向けにさせる。その睛は焦点が合わず、口は閉じることを忘れて開いたまま、唾液が口元からこぼれて筋をつけている。ようやく自我を手放した異母弟に千迅は笑む。それでいい。すべて快楽で塗りつぶしてしまえばいい。千尋の腰を揺さぶりながら、突き上げる欲求に千迅は奥歯を噛む。度し難いと思う。千尋の九月を消してしまいたいと思いながら、しっかりとその躰に欲情している。躰の反応だと思っていても。
 秋の風がひたひたと千迅の背後に忍び寄る。雲の覆いが解けた丸い月はいっそう冴えた光で庭先を照らす。

 せん……せ、い……。

 それは喘ぐ声に呑み込まれて唇の形のとおりの音にはならなかった。ただはっきりと、千尋の上にいる千迅には、その唇の動きとともに、声が見えた。千尋の睛は、今はいない人を見ているように熱で潤む。
 静かな夜に鋭い打音が響く。千迅が千尋の頬を打った音だった。突然の衝撃に千尋は呆然としている。千迅は千尋の上から退くと脱ぎ捨てていた衣服を身につける。冷や水を浴びせられたように、千迅の躰からは熱が引いていた。
「千迅……、」
 正気を取り戻した千尋の声はか細い。自意識を手放しているうちに頬を打たれ、中を貫いていたものも手加減なく抜き出され、まだ燻りを続ける快楽の余韻に千尋は震えていた。
「……興が冷めた。」
 千迅はシャツを羽織ると、釦を留めないまま庭に出て煙草を咥えた。灰色の影が薄く生垣へ伸びる。そこには晟の好んだ未央柳の葉叢があった。花はとうに落ち、柳に似た葉が広く繁茂しているのは、千尋が一際手を掛けて世話をしているからだろう。
「おまえがそういう性質だというのは解っているが……、」
 千迅は加えた煙草をいつになく苦く感じていた。
「ごめん……。ごめん千迅、」
 千尋は布団に蹲ってぽろぽろと泪をこぼす。千迅は気を落ち着けるために深く烟を吸い込み、細く長く吐き出していく。夜の終わりはまだ見えなかった。