※このお話は池畔の家で同棲する異母弟のifストーリーです。千迅さんが京都に在住している設定なので、千迅さんはお医者さんをしています。千尋さんはK大の大学院に進学したばかり、凜一さんは中学生の設定です。
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当直を終えやっとの思いで千迅が帰宅したのは夕方だった。本来、当直とは夜間に勤務することであり、夜が明ければ退勤となるが、担当患者の急変やその他のヘルプが入り、結局千迅が帰ることができたのは昇った陽が落ち始めた夕暮れ時だった。そもそも当直前からも病院への泊まり込みが続いており、千迅が池畔の家に戻れたのは実に二週間ぶりだった。
千迅がK大の医学部を卒業し、そのまま研修医として勤務するようになって二年が経っていた。この年、K大の文学部を卒業した千尋は、大学院進学を機にそれまでの下宿を引き払い池畔に建つ一軒家に移り住んだ。増え続ける蔵書を管理するために広い部屋に移るのだと云う割に、湿気の漂う家を選ぶのは解せなかったが、気に入ったからここにするとさっさと引っ越しの段取りをつける千尋が「一緒に住まないか、」と云うので千迅は珍しく驚いた。
「どういう了見だよ。」
「医者になってから、おまえ碌な生活をしていないだろう。」
異母弟にそう云われれば、千迅は反論できなかった。勤務、学会、研究が雪崩を起こす生活で、病院への泊まり込みは連日に及び、アパートには寝に帰るだけの生活が続いていた。
「碌な生活をしていない兄貴の面倒をみてやろうってことか、」
煙草を取り出しながら千迅は笑う。小椋家の庶子である千迅は、小椋家との関わりを一切持たない取り決めとなっている。しかし、その取り決めを容易く破る実父によって引き逢わされて以来、異母兄弟は公にはできない交流を続け、鎌倉からは遠いこの京都では何を憚ることもなく付き合いを続けてきた。
「茶化すなよ。逢うたびに顏色が悪いんだよおまえ。まともな飯喰って、ちゃんと寝ているのか。医者の不養生なんて洒落にならないぜ。」
返ってきたのは思わぬ語彙の強さで、千迅が思ったよりも千尋はその体調を案じていたようだった。急患が入れば食事中でも睡眠中でも行かなければならないのが医者である。体力勝負の仕事であることは自明であり、体調管理は業務上の必須事項ではあるが、何もそれを異母弟がすることはない。
「心配は有り難いが、それはおまえがしなくてもいいことだぜ。院進したばかりだろう。人の世話を焼く前に、おまえはおまえのするべきことをきちんとしろ。」
おまけに千尋の新居に住むことは、流石に取り決めを有名無実化にしすぎている。取り決めは今やあってないようなもので、小椋本家の長子である十時の実子ふたりも千迅と関わりをもっているが、それはあくまで小椋家の益に反さないため目こぼしされているだけで、千尋の家に千迅が住むのは度が過ぎている。それが解らない異母弟ではないはずだが、彼は情に深い性質をしている。不健康な生活を送る異母兄を見かねたのだろうと、千迅が手にした煙草に火を付けようとしたとき、千尋が傍にあったクッションを投げつけた。
「おい、なんだよ。」
危ないだろうと千迅はクッションを受け止める。千尋は唇を結んで、眉ねを寄せて怒ったような顔をしていた。
「云いたいことがあるならはっきり云え。」
千迅に促されても、千尋は苦虫を噛み潰したような顏をしながら睛を泳がせる。千迅がそれ以上は何も云わずただじっと千尋のことばを待っていると、観念したのかようやく口を開く。
「……千迅、医者になってから全然捕まらないぢゃないか。」
ぽつりと云う。
「約束していても急患が入ればキャンセルだし、一緒に飯喰っていても呼び出されば病院にとんぼ帰りだ、」
「……そういうことなら、最初からそう云えよ。」
面喰らった千迅は一瞬ことばを失うが、投げつけられたクッションを脇に置くとそっぽを向く千尋を抱き寄せる。心配も嘘ではないだろうが、いじらしいことを云われれば千迅の心境も変化する。
ふたりの同居が鎌倉に露見したときに云い訳が立たないことを理由に、千迅はアパートの解約はしなかったが、その日以降、千迅の帰る家は池畔の家となった。
千迅と千尋のふたり暮らしはこうして始まり、この日ようやく池畔の家に帰り着いた千迅は、やっとの思いで玄関戸を開く。
「やっと帰って来たな。おかえり。」
千迅がただいまと云うよりも早く、戸の開く音を聞きつけた千尋が居間から顏を出す。最後にこの顏を見たのは何日前だろうか。
「相変わらずくたびれた顏をしているな。風呂を立ててあるぜ。早く行けよ。」
立て板に水の千尋の労りは、三徹を経た千迅にやたらと沁みた。千迅は吸い込まれるように千尋に抱きつくと、その首筋に顏を埋めて息を深く吸い込んだ。憔悴した精神には不可抗力だった。抱きつかれた千尋はおい、とか、待てとか云っているが、そのことばはただの音として千迅の耳を通過していく。
普段の千迅なら、異母弟に抱きつくその足元に、見馴れない学生靴が行儀よく並んでいることにすぐに気がついただろうし、聞かずともその靴が誰のものかなど瞬時に理解しただろう。疲労は観察力と判断を狂わせる。千迅が千尋を吸う間、段々と語気を強める千尋の声がようやく千迅の脳内に届く頃にはもうゲームオーバーだった。
「おい。いい加減離れろよ。凜が来ているんだ、」
はっとした千迅が顔を上げれば、千尋が出て来た居間の入り口には、師匠の忘れ形見であり甥っ子でもある原岡凜一が顔を覗かせていた。そういえば今月は凜一が遊びに来ると千尋が云っていたような気もするが、それが何日のことだったか、日付も曜日もない生活をしている千迅は咄嗟に思い出せなかった。
「おかえりなさい千迅さん。お疲れですね。」
中学生とはいえ、社会的な振る舞いが板に付いた甥っ子は、今まさに目にしたことについて一切触れることなく微笑むが、その顔には(あー千迅さん、兄さんにはそういう感じなんですね。へー。そうなんですか……)としっかりと書いてあった。
千迅は無言で千尋から離れると、そのまま玄関を上がって凜一の前に立ちはだかる。それまで薄い笑みが浮かんでいた凜一の顏は、一瞬で怯えに変わる。たった今凜一が弱みを握った千迅は、普段はそれはそれは厳しい華道の兄弟子である。怯まない方が無理である。
凜一に影を落とす無表情の千迅は、徐にその顎を捕らえると、無理矢理にその唇をこじ開けた。上背のある千迅の影に凜一の姿は隠れるため、千尋の立ち位置からその様子はまったく見えない。ただ、抗うような凜一の吐息と、唾液の絡む音が聞こえるだけだ。やがて、より深く口付けるためだろう。その背をしならせて頭も抱き込むと一切の逃げ道を塞ぎ、たっぷりと数十秒は掛けた執拗で激しいキスをした。
「ん……っぁ……。」
喘がされる凜一は、支えを求めて千迅の肩に縋り付く。凜一の足が覚束なくなると、千迅は凜一の細い腰に腕を回して一層激しいキスをする。
それから間もなく、ようやく解放された凜一は、息を乱して顏を紅潮させて立っているのもやっとの状態で、気の済んだ様子の千迅はそんな凜一を放置すると、
「風呂。」
とだけ云って脱衣所に消えていく。凜一は呆然としてへたり込んだ。
◇
夜半。ひとりで息んでいた千迅は何かの気配に目を醒ました。室内はまだ暗い。まだ夜中かと思えばもう一度眠りたいと思うが、違和感があった。ぼやけた頭で渋々目を開けると、横になる千迅の上に千尋が乗っていたので、声も出ないほど驚いた。
「……なっ、んなんだ、おまえ……、」
どっと鼓動が早打ち、千迅の意識は完全に覚醒する。目覚めたばかりでまだ暗闇に順応しない千迅の睛にははっきりと映らないが、上に乗る千尋はむくれたような顏をしているようだった。
「……キスは、凜だけなのか、」
暫く唇を固く結んでいた千尋が、至極云いにくそうに口を開いた。顔を背けて恥辱に耐えるような顏をしているので、千迅は思わず笑っていた。
「千尋、」
そう名前を呼べばちらりと千迅の方に顔を向ける。千迅はその首筋に腕を伸ばすと、そのまま千尋を引き寄せて触れるだけのキスをした。堪らなかった。そのまま拗ねた顏の異母弟の首筋を、まるで猫を撫でるように、撫でる。
段々と夜闇に目が利くようになった千迅は、自分に乗っかる異母弟をじっと見る。色の識別などできなくとも、その頬が紅く染まっていくのは手に取るように解った。
「おいで千尋。」
布団を上げて促せば、千尋は何も云わないがするりと千迅の隣に収まる。髪を撫でて、伏せる目尻に触れて、抱き寄せるとまた触れるだけのキスをする。肌に触れるほど近づけば、その匂いもまた千迅の鼻をくすぐった。千尋という存在の手触りと匂いが、千迅の心に沁みていく。
一方、布団に入った千尋は焦れていた。千迅に触れられるのは数週間ぶりだった。最後に顏を合わせた二週間前も触れあいはしていない。だから夕方見せつけられたあのキスに、千尋の心はざわめき立った。
風呂から上がった千迅が何事もなかったように通常通りなのも憎らしく、食後に呑み直そうとした千尋と凜一に、当直明けだからとさっさと自室に戻っていったのも腹立だしかった。疲れているのは解っているが、千迅が家に戻ったのは二週間ぶりだ。もう少し何かあってもいいのではないか。そもそも普段は千尋の室で息むくせに、今日に限ってほとんど使用しない自室に戻るというのはどういうことなのか。凜一と呑んだ後に、誰もいない自室を目の当たりにして、千尋は恨みに思った。
千迅が千尋の室にいなかったのは、凜一が来ていたからだと解っている。解ってはいるが納得できない。納得できないと目が冴える。そんな三段論法で気づけば千迅の室を訪ねていたのだが、健やかに眠る異母兄を見れば手をこまねいた。帰宅した千迅の目元に隈が濃く出ていたのは気づいていた。やっぱり室に戻ろうかと思い直したときに千迅が目を醒ました。
「千尋、」
そう呼ばれれば苛々した気持ちが途端に消し飛ぶので悔しい。でも抗えない。触れるだけのキスでは物足りない。そう思う反面、やさしくゆっくりと触れられると、千尋の乾いた心が満たされていく。千迅が不在の間、何度も思い出しては耽溺した、その手が、千迅に触れ、その声が囁くので。
「おいで千尋。」
ゆっくりと息が上がっていく。もう今日は、これでお仕舞いでもいいと思う心と、躰の奥の疼きがもう我慢できないと悲鳴を上げる。千迅はごく丁寧に、ゆっくりと千尋の輪郭をなぞっては、啄むようなキスを繰り返す。
今日はもう、これでいい……。隣で眠ることができればそれで。千尋がそう思って、指先まで押し寄せる欲のさざ波をやり過ごそうと気持ちを切り替えようとしたとき、足の間に千迅の腿が差し込まれて思わず上擦る声が洩れる。
「ぁっ……、」
不意打ちだった。擦られ圧を与えられればそこは容易く反応する。千迅がどういうつもりか、与えられる刺激の合間に薄目を開けば、欲を宿した睛が千尋を見つめ返す。堪らなくなった千尋は、自分からそこを千迅の躰に擦り付けた。もうこれでいいなんて、嘘。
「おまえの下宿でしていたときみたいだな。声、出すなよ。」
うつ伏せにされた千尋に、背後から囁く声は意地が悪い。かつての千尋の下宿は学生用だけあって部屋は狭く壁は薄かった。真夏でも窓を閉め切って声を押し殺さねば遂げられず、茹で上がりそうな熱気の中で求め合った。池畔の家に越してからは周囲への過度な配慮は必要なかったが、この日は隣室で凜一が息んでいる。意識づけられた背徳は一層千尋を昂ぶらせた。
千迅はゆっくりと丁寧に千尋の中を弄る。ひとつひとつの刺激を、余すところなく千尋に味合わせるつもりのようだった。それは激しく求められるときとはまた異なり、翻弄されるうちに過ぎる嵐ではない。低温でじっくりと焼かれ続けるような逃げ場のない官能が千尋を追い詰める。
「っ……ぁ……、」
歓喜する躰からは自然と切ない声が零れ出る。芯から躰が震える。千尋はかつての真夏にそうしたように、シーツを噛んで千迅から与えられる快楽に没頭した。
◇
夜が明け、微睡みの中でいくらか睦み合った後、そういえば凜一が来ているから先に起きて朝食の準備でもするかと、千迅と千尋が乱れた浴衣を整えて室を出ると、まさに同じタイミングで隣室の唐紙が開くのでふたりは驚いた。
「……おはようございます。」
先に挨拶をしたのは凜一だった。昨日と同様、ことばの上では礼儀を守っているが(あれ、なんで一緒の室から……、ああ。そういうことですか。わざわざ別の室で息んでいたのに、あ……へー……。案外と堪え性がないんですね。)とありありと顔に書かれており、さすがの叔父ふたりも返すことばを見つけられなかった。