花鋏

 江島は浪人生活を一年で終え、その年の春から京都で下宿をしていた。見知らぬ土地での慣れない下宿生活、山のように出される課題の多さと容赦のない試験に息が切れるような毎日だった。しかし初めて親元を離れた自由な暮らしと、新しくできた友人との学生生活は充分に刺激的であり、その年の夏季休暇は、盆の時期に戻った後はすぐに京都に戻って短いアルバイトをしたり、友人と旅行に行ったりと存分に楽しんでいた。
 それとは対照的にこの冬季の休暇は、正月が挟まることもあり二週間の休みはまるごと実家に戻って過ごしていた。江島としては久々の実家でゆっくりと過ごすつもりにしていたが、医院を経営する家業はそれを許さなかった。
 その日、医院の受付をしている事務員から子どもが熱を出したため急遽休みを取りたいと連絡が入った。普段ならこうした緊急事態では江島の母親が受付に入って業務を補うのだが、年末の諸事で忙しく躰が空かない。そこで医学生となった息子に家業の見習いをさせるという算段で家族の意見は一致した。事務員は子どもの熱が下がり次第出勤ということになり、江島は引き継ぎを受けた後不本意ながら受付に座って過ごしていた。
 最初は渋々ながら座った受付だったが、診察に訪れる患者は江島のことを子どもの頃から見知った近所の人々で、跡取りが大きくなったと喜ばれるとくすぐったさが胸に沁みた。カルテを見れば江島の父の代、祖父の代から家族揃って江島医院をかかりつけ医として通っている患者家族の歴史がいくつも見え、江島は家業を継いで医師になるということの意味を改めて噛み締めざる負えなかった。
「黎一ぢゃないか。何をやっているんだ。」
 午後の診察を始めた頃、久々に見る顔が受付に来る。黒のコートを着て首にはベージュのマフラーを巻いている。江島は驚いて思わず立ち上がった。
「久しぶりだな千迅。見ての通り家業の手伝いだよ。受付さんの子どもが熱を出してそのピンチヒッターだ。」
「なんだしっかり貢献してるぢゃないか。」
「人使いが荒い家なんだよ。おまえこそ風邪でも引いたのか。受験生だろ。」
「今日は父の風邪薬を貰いに来たんだ。仕事で来られないから代わりに。」
「そうか。わかった。聞いてくるから座って待ってろ。」
 江島は受付の後ろにある棚から千迅の父親のカルテを探すと奥へ引っ込む。千迅は待合の椅子に座ってマフラーを解いた。診察待ちの患者は子どもから大人まで十名前後が千迅と同じように座って待っている。江島医院は竹雄では唯一の医院だった。他の病院に行こうと思えば車で一時間はかかる。竹雄は高齢者も多い地域で、足がなく、よほどのことがなければよその病院には罹れない患者も多い。江島医院は内科の看板を上げているが、実際は患者の不調は何でも診る総合病院に等しかった。
「千迅。前の風邪薬と同じでいいんだよな。今調剤してもらっているからもう少し待ってくれ。」
 受付に戻って来た江島は身を乗り出して云った。
「悪いな。大先生に無理を云った。」
「気にするな。ついでに親父は医師会の会合で、今日は代診の先生なんだよ。親父さん特に持病もないし、今日の薬で治りにくいようだったら今度は診察に来てくれということだ。」
「わかった。よく伝えておく。恩に着る。」
「仕事納めで忙しいんだろう。正月はゆっくり休めるといいな。」
 江島がそう笑いかけると千迅も笑みを洩す。一言二言雑談を交わした後、千迅は待合の片隅に水を張ったバケツに無造作に挿れられている花を指さした。
「あの花はどうしたんだ。」
「ああ。うちの待合の花は親父が挿けるんだが、今朝から会合に行く癖に花屋の配達を断っていなかったんだよ。俺は挿れられないし、おふくろは年末で忙しいからとりあえずバケツ挿れておいたんだ。」
「大先生が普段使っている花挟はあるか。」
「診察室にあったはずだが、どうするんだ。」
「俺が挿けてやるよ。あれぢゃ花が気の毒だろう。」
「そう云えばおまえ親父と同じ教室に通っていたな。今でも行っているのか。」
「ぼちぼちだよ。ほら、さっさと持って来いよ。あと水差しと、なければ薬罐でもいいからついでに頼む。」
 千迅はそう云うとバケツを待合にある花台の前まで持って行き、今は何も挿けられていない花器を眺めた。水から花を上げると、花を纏めていた新聞紙を広げ、その上に並べる。江島には解らなかったが、花は蕾の西王母椿と蔓梅擬。花入れは信楽だった。千迅は西王母椿の枝を持ち上げて枝と葉の見分をする。
「千迅これでいいのか。」
 千迅が構想を立てていると鋏と薬罐を持った江島が傍に立っていた。先に鋏を千迅に手渡す。
「悪いな。……よく手入れされている鋏だ。さすが大先生だ。」
 仕事の傍ら華道を嗜む江島の父は、教室の稽古にはもうほとんど通えていないとこぼしていたが、花を挿すこと自体は辞めていなかった。不意に江島の脳裏に疑問がよぎる。
「そういえば、おまえはどうして華道をしているんだ。……親父はさ、K大の附属病院にいたときに流派の若先生が在学していて、それで弟子入りしたと云っていたんだが、」
「……珍しいな。おまえがそんなことを訊ねるなんて。」
 千迅は作業の手を止めて江島を見上げる。
「人を薄情みたいに云うなよ。響一もやっていたからあまり不思議に思わなかったんだよ。」
 江島はばつが悪く千迅から睛を逸らすが、当の千迅はおかしげに笑っただけで特に気にした様子はない。
「元々は母親がやっていたんだよ。手ほどきは物心ついたときからだ。もう習慣みたいなもんだ。」
 千迅の母親は早くに亡くなっている。江島が何と云えばいいのか思案しかけると「終わったら声を掛けるから黎一は家の手伝いをしっかりやれ。」と受付に戻される。
「人を小学生みたいに云うな。でもまあ頼むよ。普段は気にしなかったが、待合に花がないのはやっぱり殺風景だよな。」
 それを聞いた千迅はふっと微笑んで花を手に取った。江島は受付に戻ると患者の呼び出しや会計、カルテの整理など細々と仕事を続けていたが、視界の隅では花を挿す千迅を気にしていた。
 千迅は椿を手に取ると迷う素振りもなくひとつの枝を切り、何枚かの葉を落として花入れに挿れる。赤い実のついた蔓梅擬は枝を手で覆って様子を確かめた後、小枝を小気味よく落としていく。その後も何度か同じように枝を覆って切る枝と残す枝を見極めると、あっという間に枝は整理されて花入れに挿れられた。最後にヤカンで汲んできた水を花入れに入れて調整するまで、僅か十分ほどの手際のよさだった。挿けられた西王母椿も蔓梅擬も、最初からこれしかなかったというような納まりのよさで、江島は目を見張った。
「すごいな。俺は花のことなんてわからないが、うまいもんだな。」
「感心するなら、次期院長先生も大先生に習ってみろよ。」
 千迅はヤカンや鋏などの借りたものを受付の江島に返すと、代わりに薬を受け取った。江島は相変わらずの口の悪さに苦笑しながら、千迅のことを気に掛ける。
「親父さんもだけど、おまえも風邪引くなよ。共通一次まであと少しだろ。頑張れよ。」
 千迅は一瞬妙な顔をして江島の顔をじっと見つめると、ああと小さく答えて医院を後にした。
千迅が受験をしないと江島が聞いたのは、その夜父が帰って来てからのことだった。

※01/23「花は咲かない」からタイトル変更しました